教会学校日曜クラスでは、
「自由」について哲学対話形式を取り入れてやってもらいました。
授業でいつもワクワクしながら悩むのが、
①「巻き込み型」「伝える型」
でいくか
②「引き出し型」「対話型」
でいくか、
ということ。
③第二バチカン公会議以前のカトリックの教会学校は部活動や塾以上にかなり厳しかったみたいで、
要理問答を暗記して、口頭で答える、
というものだったよう。
「神が人間を創造したのは何のためですか?」
「人間とはどういうものですか?」
「宗教とは何ですか?」
「悪が存在するのはなぜか?」
etc
どれも必要だと思うのですが、
①の場合だと、
まあ、自分の伝えたいことだけ伝えて、一方通行になっている感が否めない。
一生懸命準備したものが徒労に終わることもしばしば。
基本的に、絵本や映像教材をつかいながら、
それを料理して、核心部分を引き出していく。
学校や一般的な学習施設と違い、
信仰教育なので、
目に見えない世界と、個人的な確信と、共同体の信じることを、
いろんな例えを使いながら示していくわけです。
②の場合、
いわゆる哲学対話、本質観取形式で、
幸福や自由など、一つの福音に関連するキーワードを挙げて、
その体験と、共通のキーワード、本質を探っていく営みになるわけです。
私も何年もやってきたことなので慣れていますし、
いろいろ話したい子が多く、盛り上がります。
そこで出てきて、子どもたちの理性で把握できる本質を、
前もって予想しておいて、
聖句と結びつけて、
「本当の幸福とは」「本当の自由とは」、、、
とかなり誘導的にやっていく。
③の要理問答、
今だったら、カテキズムの暗記もやってみたいのですが、
これも、①②とうまく噛み合わせながらやってもいいかもしれない。
基本的に、信仰は哲学を成長させて生じるものではなく、
どこかで飛躍、賭け、啓示、畏敬が生じる必要がある、
しかし、信仰は理性を超えていても矛盾はしない、
というのが私の中の実感です。
「宗教科の授業」と、
「信仰の現場」も、
また大きな隔たりがあるように思います。
言葉でわかりやすく噛み砕いて伝えられる部分と、
言葉にできない、深い祈りの波動の部分、
実際に力となる不思議で霊的な部分がある。
人間存在の深い地下水脈に流れる、キリストの愛。
当然、ミサ以外にも、
祈る、ということを習慣にしたいし、
集まって食事をするという喜びも重要でしょう。
◆
新年会では、神父様とお話し。
私がぶっちぎりで一番の若手。
おそらく十年後には信徒の数は三分の一になっているだろうという。
ベトナムやフィリピン、また長崎などでは、
信仰教育が厳しく、子どもも多い。
しかし、多くの二世問題も抱えており、
集落のほとんどがカトリックであるため、教会に来ないと村八分状態になる。
集落にいる時までは信仰を押し付けられるが、出るともうパタっと来なくなる。
それはそれで嫌だ。
他方、
都会の教会は、もう自由すぎて何でもありというかゆるい。
ゆるいため、信仰継承が行われない。
中高生会、青年会は、実質消滅状態。
その中間というものがないのである。
原理主義的な極になるか、
老人たちの集う緩やかな社交場になるか。
幼稚園までは、先生も子どもも信仰を受け入れるが、
小学校になると、すっかり忘れてしまい、
大人になって危機に面した時、「そういえば」と神様のことを思い出してやってくる。
◆
10人程度でいいので、
非常に霊的に燃え上がる喜びのある超教派的な集いを定期的にやっていたいと思うし、
霊的な著作を分かち合う研究会もやっていきたい。