十字架を負いてよろこびあり。 | 救魂録

救魂録

カルトや発達障害や自己啓発など潜り抜けてきたカトリック信徒のブログです。

【苦しみは喜び】

ここ一か月うつ病に罹患してしまい、

連日、吐き気と、不眠と、息苦しさと、緊張がずっと続いている状態です。

 

治るためなら、いいと言われることは何でもしました。

筋トレや運動がいいと科学的なデータがあれば、週五でやりました。

漢方もサプリもセラピーも瞑想も言霊もアロマもサウナも、

「どれだけ健康になんねん!」(笑)というくらいみっちりやりました。

 

うつをぶっ飛ばすために

ベンチプレス80キロ挙げてる時も、

 

「はー、死にたい。」

 

全力で有酸素やってる時も、

 

「消えたい。」

 

スクワット百キロあげながら、

 

「自分は社会のクズ」

 

腹筋やりながら

 

「オレは誰も愛せない。何もかもが裁かれる。」

 

 

客観的に見てめっちゃバイアスかかってるんですが、

思いたくないけれど、思っちゃうんです。

 

思いながら

「大丈夫大丈夫大丈夫!ついてるついてるついてる!なんとかなるなんとかなるなんとかなる!」

とか笑顔でつぶやいてやり過ごす。

 

一番つらいのは、症状そのものよりも、

「誰も分かってくれない」という孤独です。

 

バーベルという話し相手を見つけてぶつぶつ話しかけて、

「バーベル、オレは頑張ってるよなあ!」とか話を聞いてもらえるのですが、一過性なんです(笑)

 

苦しい、休みたいと口に出せない。

「気のせいだ」とおもって、押し殺す。

 

「がんばれ」

「しっかりしなきゃ」

「幸せだね」

「みんな大変なんだから」

「あかんやん」

という、励ましや祝福とアドバイスの言葉がズーンとこたえて余計死にたくなる。

 

大変ながらも自分の意志でニコニコして幸せそうで喜びに満ちた人々を見ると、

「ついていけない。無理だ。」となる。

 

人が怖くて、誰にも会いたくなくなるのです。

いつも、「ここに居るべきじゃない」と思いながら幸福の仮面をつける。

誰にも目を合わせられない反面、この煩悶をとにかく誰かに打ち明けたい。

 

たしかに、今めっちゃ幸せで、うれしいことは確かなのです。

ですが、心の奥ではひたすら寂寥しかない。

 

自分で自分の元気を充電しておいたり、考え方を前向きなものに替えていくべきなのでしょうが、

それができない。

 

願いは、

「認めて欲しい」「分かってほしい」「受け止めて欲しい」

「もう十分に休みなさい」と四方八方から言われ、ちやほやされたい。

ですが、自己中心的で、自分から愛を与えることのできず、奪うことしかできぬ私にとってその資格などないのです。

 

 

 

ずっと、楽になることばかり考えて、祈りました。

 

しかし、応答はなく、

祈りはかき消され、信仰はなくなりました。

 

私のところには神は来ないのです。

 

いえ、

神がどれだけ私を無条件に愛しているといっても、

どれだけ、近づくことを欲したとしても、

私の中でそれをすべて否定してしまう何かが働くのです。

私のうちに生きる罪と自我が神を魂の中に招き入れることを拒否するのです。

 

愛ではなく、滅びと自己嫌悪と人間への不信が遥かに勝るのです。

 

神は単なる観念となりました。

すべては空しく、何ものも満たせない無限の寂寥感ばかりが私を支配しました。

 

「自分がダメだからだ。自分が間違っているからだ。」

とひたすら恐れに包まれました。

 

「やってきてください!助けてください!

来なかったら、あなたを打ち捨てます!」

と《取引》までするようになりました。

 

そうしたら、「そこまでやるか」という予想を超えた出会いが迫ってきたのです。

 

 

 

そんな折に、ダミアン神父という人のことを知りました。

 

・・・・・・

ダミアン神父のお話をさせていただきたいと思います。

ベルギー人のカトリック司祭でしたが、ハワイのモロカイ島という絶海の孤島のハンセン病患者の隔離施設に赴きます。

1873年、33歳のことです。彼がこの世の名誉も利益も安楽も一切を捨ててモロカイ島に足を踏み入れた先に見たものは、言語に絶する状況でした。

五体満足なものはおらず、食うや食わずやの食糧難、看護する医者もいません。

水もなく、他の病気を併発して、栄養失調で次々と死んでいくのです。

葬式はなく、死体は溝の中に投げ捨てられます。

警察官も法律もないので、無法地帯で、暴力が支配します。

 

ダミアンは、毎日800人の患者を看護して、膿を拭き、傷口を洗って看病しました。

また家や病院をたて、水道設備も整えました。

同じ食器から食事をし、パイプも使いまわしです。

 

肌を接して一緒に接し、

「神は愛である」と伝えようとします。

 

しかし、患者たちは「神が愛なら、なぜ俺たちはこんな悲惨な暮らしをしなければならないんだ!神は鬼だ!」と罵ります。

 

伝道に挫折を感じたダミアン神父は、自らハンセン病になることを神に祈り、昼間膿を洗い流したバケツを抱えて、跪いて祈り、飲んだりしました。

 

そして、ある日急に発病し、鼻は裂けめは見えなくなり、耳は朽ち果て、顔かたちは見る影もなく変わり果てました。

 

それから、ダミエン神父の説教は

我々、レプラ(菌)の者は・・・」となりました。

彼は手紙でこう告白するのです。

 

「私の心は平安です。

同病の兄弟たちの間に会って、大変幸福です。

私は日々、こころから、御心がなりますように、と祈っています。」

 

それから、片手のない者たちが木材を運んで小屋をつくり、野菜畑を開墾し、オーケストラや聖歌隊が美しい歌声を奏でるようになります。

ミサのたびに喜びに満たされるようになります。

 

ところが、ダミエンの名声から嫉妬が起こり、牧師からは誹謗中朝が起こり、カトリック教会からも異教徒を受け入れているのは規律違反と叱責されます。

 

彼が眠るように亡くなった時、不思議にも彼のハンセン病の症状は完全に消え去っていたといいます。

 

 

・・・・・・・

 

「なんなんだ、なんなんだこいつは!」

と信じられませんでした。

 

心配する、

共感する、

いつもそばにいる、

抱きしめるじゃ足りない、

「献身的自己犠牲」などと呼ぶにも足りない、

「自分も下に降りて行って、同じ苦しみを味わって、共に苦しむ」愛があることを知った時・・・

――それまで、言葉では説明できましたが、

それがいざこの身に及び、染みわたった時、

「そこまでやるか。そこまでやるか。」

と、あまりにももったいない愛にどうしていいかわからなくなり今まで抑え込んでいたものがあふれるように涙が止まらなくなりました。

 

その瞬間に私はすっかり変えられてしまったのです。

 

身体は「人間の姿をしていない肉の塊」と化し、世間から捨てられ、ただぼろ雑巾のように捨てられるだけのハンセン病患者たちの肉体だけでなく、「存在の痛み」はいかほどだったか・・・。

少し健康を損ね、少し障害を持っただけでもとても苦しいのに。

 

話を聞いてくれるとか、分かってくれるとか、抱きしめてくれるだけでも一杯なのに、分かち合うために自分まで同じ病気になるなんて・・・。

 

どうしたら、そんなことができるのでしょう?

単なる道徳や人間の意志努力や理想像ではない。

すべては、あの愛・・・十字架に至るまで愛し抜いたイエスの愛の至福に駆り立てられて。

 

神は観念ではなく、

実際に人間となって私たちの苦しみ、孤独、痛みのすべてを共に担ったのです。

この愛の中に、私たちは神の本質と出会います。

このこと抜きにして神は分かりません。

 

依然として、苦しい症状は続いていましたが、そのことを思い出しては、道中でも涙があふれて止まらなくなり、この苦しさが喜びに変えられるようになったのです。

 

私の祈りが、熱心な信仰が、日々の努力がそうさせるんじゃないんです。

胸を痛めるほどの上からの愛が、

何もかもを拒絶し、何もできぬ無力でしかない私に望むのです。

 

指先が痛めば、全身がそれを助けるように。

宇宙生命全体はごくごく小さな魂が打ち捨てられたらそこに全ての愛を注ぐのです。

 

私は、ダミアンの信仰よりも、名もなく葬られたハンセン病患者の救いに想いを寄せます。

 

もちろん、ダミアン神父やイエスの真似をすることは人間の努力では至難の業です。

それでも、少しくらいは、自分の苦しみを神におささげすることはできます。

 

 

ほんとうに、私は苦しんでよかった!

この苦しみは、十字架の愛に出会うためにあった。

 

まったく、私の苦しみの意味が変わってしまったのです!

私は孤独のさなかで神の愛に触れたのです。

この苦しみは、愛に通じているのです。

私は、世界中の苦しむ人々と、またイエスの愛とともにあるのです。

 

声にならない「呻き」はそのままで祈りです。

その呻きは宇宙全体に響いているのです。

 

「ほんともう、だめです。治りたいとか、楽にしてください」とは祈りますが、

私はそれ以上に、この苦しみを愛ゆえにおささげしたい。

愛ゆえに、私は喜んで十字架を背負いたい!

 

 

 

癒される以上に、私はこの苦しみを通して、真の愛に至りたい。

 

イエスよこの身を行かせたまえ

愛のこぼるる十字架さして

 

我は誇らん ただ十字架を

あまつ憩いに 入るときまで

 

十字架を負いて よろこびあり

たえず御影によらせたまえ」

 

 

 

かつて、この意味が全く分からなかった。

 

なんでわざわざ苦しみを礼賛するんだ。

おかしいんじゃないか。

 

いいえ。

決してストイックな苦しみや自己犠牲を礼賛したり美化したりするわけではありません。

 

 

愛する人は・・・イエスの愛に打たれた人は、喜んで自ら苦しみを担うんです。

苦しみと孤独のうちに喜びがある。

 

そこにイエスの愛が、十字架が連なっている。

神はそばにいて、十字架の上で我々罪人に微笑みかけてくださっている。

 

苦しみが喜びに変わるのではないのです。

愛ゆえに、闇と痛みのどん底まで降りることを望んで、

となりに行き、「共に」苦しみを担うのです。

喜びも苦しみも分かち合うのです。

 

地獄のただなかにこそ、天国が実現するのです。

 

病気が治ることが救いではない。

病気のまま、苦しみと孤独のまま愛に包まれることが救いなのです。

もし治れば、うれしいことですが、それはオマケです。

 

この苦しみは、必要なことなのです!

愛を完成させるために。

救いを証しするために。

 

 

この期間は本当に多くの人の優しさにお世話になりました。

 

ヒーリングをしてくれた方々、

話を聞きにわざわざ時間と心を注いでくださった方、

祈ってくださった方、

助けに来てくださった方、

心配していろいろメッセージしてくださった方、

色々くださった方。

 

それなのに、足りないことばかり目が向いて、自分のことばかり考えて壁ばかり作ってばかりでお礼が出来ず申し訳ございません。

 

ここに際して、改めて深く感謝を述べさせていただきます。

 

私の話が、今闇の中にいる誰かの救いに繋がることがあれば、これほど幸いなことはありません。

私たちは皆つながっています。