天才児教育を施された私の末路。 | 救魂録

救魂録

カルトや発達障害や自己啓発など潜り抜けてきたカトリック信徒のブログです。

半分、胎内の息子の魂に向けて書きます。

 

子が出来て気が付いたことは、親のエゴというものはすさまじいということです。

 

すぐさま、子どもに望むこと、

「こんな子に育ってほしい」

という思いが次々出てきました。

 

・知的探究を愛する子に

・読書の好きな子に

・スポーツは万能でなくともよいが、何か一つ得意なものをつくって欲しい。

・姿勢の良い子に

・色んな立場との対話を大切にする子に

 

全部、お前がそうしろよって話ですよね。

 

親という生き物は、子どもに「幸せになってほしいあまり」

「ここがこうなったらいい」を無限に出してくる。

 

 

さて、

私の母は、狂気じみた「教育ママ」でした。

 

最近、胎内教育や子育ての話を読み始めたのですが、

そこに書いてあることを本当に律義に全部やっていました。

 

 

 

おそらく、

子どもはたくさん産んだ方が良いと言われて、

計画的に三人目の私まで産んだのでしょう。

 

母は、ある宗教団体の信者で、そこでそういう教えがあったので、三人いったのでしょう。

 

 

男ばかりだったので、女の子を望んでいたそうですが、

三人とも男でした。

 

つけられたのは、女の子とも間違われる名前で、

漢字の意味は、

「マイペース」とか「のんびり」そういったところですが、

本当に名前通り、超マイペースな人間として生きています。

 

ちなみに、

女性の集団の中に、一人男である私がいてもあんまり違和感がない(笑)

 

前世を三代さかのぼったら、女性だったみたいです(笑)

 

 

まあ、おそらく、胎教もしっかりされてきたのでしょう。

 

生まれたら生まれたで、

天才児になるべく教育を施されました。

 

 

毎週水曜日には保育園を早退して、電車に乗って、幼児教室へ行き、

そこで、都道府県を覚えたり、

何十個もある赤い点を瞬時に「何個!」と答えるようなことをやったり。

立体的なブロックが全部で何個あるかというのもぱっと答えたり。

 

あと、カードの裏側の透視みたいなこともやっていた。

 

それはそれで楽しかったという思い出があります。

 

 

小学校に入ったら、公文式

 

これも、すさまじい量をこなしていたので、

だいたい学年は2~3くらい越していることが当たり前でした。

 

小1で、九九は全部言える。

小2で割り算はひっ算までできる。

小3では分数の計算までできる。

というような具合でした。

 

なので、学校の授業などは全部知っている。

 

いつも学年一頭が良かったと思うのです。

 

周りのみんなが、サッカーや野球やゲームや遊びに楽しんでいる中、

少年である私はそれらを全部返上して、ひたすら勉強勉強勉強でした。

 

 

背の高さくらいプリントは積みあがりました。

 

 

毎日、兄弟全員

ありとあらゆる健康食品を飲まされていました。

 

鉄、レシチン、ビタミン・・・。

 

「これ飲んどいて。

はい口開けて。」

と、スプーンであまりおいしくもない粒状の栄養素をぶち込まれる。

 

どうも、それらを摂取することによって天才児が誕生したことが研究で発表されたようです。

 

また、ご飯は茶色くて噛みづらい玄米が主。

 

あと、

モーツアルトも毎日ずっと流れていました。

 

 

寝る前にお話を読んでもらう習慣もありました。

 

 

 

母は、

子どものために、大量の財と労力をつぎ込んで、ありとあらゆる「いいこと」をほどこしました。

 

 

しかし、

 

そんな神経質なまでの努力と苦労にも関わらず、

 

 

当の少年私の身にはありとあらゆる心身症が子どもの時から現れておりました。

 

 

おい!

 

何でそうなるんだよって話です(笑)

 

まず、アトピー。

 

いつも、目の周りや腕が痒くてたまらず掻いてばかりいて、

「まるでパンダみたい」と言われたことがあります。

 

 

次に出てきたのが、チック。

 

息がきれいに吸える感覚がなくて、いつものどに何かが詰まっているような落ち着かない感じがある。

それで、無意識のうちに「うんっ、うんっ」と声が出てしまう。

それが寝ている時もずっと続くのです。

 

 

あと、おねしょ。

 

小学校3年生くらいまであったような気がします。

 

恥ずかしいので、失敗した朝は、うつむいたまま誰とも話さず登校班の列を歩いて通学。

 

中学生卒業あたりにもあってショックだった(笑)

 

何か殺されそうな現場から逃げて、トイレにおちついて一息ついたら、夢だったみたいなよくあるパターン。

 

暗闇の中、濡れた感覚で目が覚めて、

「やべー、隠蔽しなきゃ。」

 

 

「怒らないから、ちゃんと言うのよ!」

「・・・はい。」

 

あとで、ネチネチ。

「お前、バカかと思ったわ!」

 

 

 

とにかく、当時のことを思い出してみると、

本当にリラックスして、楽しむことが出来ていたという記憶がありません。

 

つまり、絶対的な安心感がなかった。

 

 

 

母は目の前で、

勉強のできない兄の頭をおもちゃのスコップで叩き、スコップは壊れる。

 

 

体罰がごくごく当然で、

叩かれるのは「子どもが悪い」

というのが共通了解だった私たちの子ども時代。

 

何度も、

「誰か助けてほしい。」

「気が付いてほしい。」

「分かってほしい。」

そう思っていた。

 

 

 

どうも、子ども時代を満喫していなかったとか、

親に十分に甘えられなかったとかいう体験は、

今も傷として残ってるんでないか。

 

 

 

 

今では、

いくら子供がやり放題なわがままをしても、

大人が少し小突いただけで、「虐待」。

大騒ぎになり、身分まで失われてしまう。

 

一体何なんだ、これはと思います。

 

子どもの頃は、「殴られるお前が悪い」。

大人になれば、「どんな理由があっても殴ってはいけない。」

 

当時、体罰をふるっていた大人たちは、

そんなことなかったかのように、上手くポジションについて、

今では、他人のわずかな体罰も鬼の首を取ったようにつるし上げる。

 

 

釈然としないものがあります。

 

 

 

 

小学校も高学年にあがると、

苦行はさらに続きます。

 

中学受験をして有名中学に入るべく、塾通いが始まります。

 

好きだった習い事の野球も水泳もやめさせられました。

 

 

まず、有名な大手の塾の入塾試験を受けますが、落ちる。

 

その前日、布団の中、わかりやすい声で母は父に言いました。

 

「あの子、明日落ちると思うわ。」

 

それで、落ちたのが分かったら、

「なんで落ちたの!?」

とこっぴどく叱り、叩く。

 

夏休みの猛勉強の結果、合格、

「さあ、ここで勉強するのかな」と思うも、

「ここがいいそうだから、この塾に」

ということで、別の塾に。

 

六年生になると、学校も不登校となり、

平日は午後の4時から11時までひたすら勉強です。

土日になると、朝の8時から、夜の10時まで。

 

同じ問題を二回間違えたら、ビンタが飛びます。

鼻血が壁に付着するという光景もよくありました。

 

ですので、テストが終わって、答案用紙を交換して丸付けをするときの音はいつもビクビクでした。

 

 

とはいえ、どこかの時点で、

親のための受験ではなく、

自分の夢を叶えるための受験になってきたことも事実です。

 

大変でしたが、充実していた。

 

「誰よりも勉強をやっている集団だ」という自負がありました。

 

 

一月も終わり、

やっと、夢の第一志望校に合格!

 

受験したところはすべて受かりました。

 

 

「さあ、入学願書を取りに行こう」

というところ

 

親が、「そこにはいかせたくない。

あんたは、第二志望のどこそこに行きなさい。」

と言って、駅まで行かない。

 

 

結局、そこは押し通して、

遅刻しながら最後の一人として願書を取りに行きました。

 

 

 

「さあ、入試も終わったし、

春休みだから、死ぬほど遊びまくるぞー!!」

「で、英語だけは他の人に負けたくないから、予習しよう!」

 

そのころには、勉強するのが好きになっていましたが、

 

 

「あんた、そんなテキストじゃなくて、私の用意したこの教材を全部丸暗記しなさい。」

 

「繰り返して!once once once」

 

などという、噴飯ものの不合理な教え方を強要させられる。

 

 

 

「遊びに行ってきます!」

 

「あんた勉強しなさい!!」

 

流石に見かねた父が、

「まあまあ、あいつも受験終わったんやし、さすがにそれくらいええんちゃうか?」

 

 

 

そして、春休みも終わらないうちに、

塾に行かされる。

 

科目は、数学と英語。

 

一日目は、納得いかず、「絶対行かない」ということで、わざとうんこもらして休んだ(笑)

 

二日目行ってみたら、

 

「楽しい!」

 

 

で、ここでも、

「絶対一位とるぞ!」

 

ということで、すっかりその塾が好きになってしまった。

 

 

特に英語は、三年間、灘や東大寺の子たちと同じクラスにただ一人入ることが出来、

誰にも負けない自信が付きました。

 

 

 

 

で、中学生になって、

念願の野球部に入るも、塾が忙しいと言うことで、行くのをやめさせられ、

監督の先生からも怒られ、クラスメイトからも笑われ、帰宅部に。

 

 

中学二年生の時、家に帰るのが少し遅くなっただけで、

家から追い出され、

夜の街を徘徊していたら、

結局警察を呼ばれる羽目になったことも。

 

 

ある日の事。

 

「このテキストもって行かんでいい?」

「ああ、いいよ!」

その通りにしたら、

あとでやっぱりそのテキストがいることが判明。

 

「だって、お母さん持っていかんでいいっていったやん」

「あの時は起きたばっかりやったからわかるわけないやろ。このアホ!

なんでもってこうへんのや!だからおまえは何をやってもダメなんだよ!」

 

なんてことを、親戚の赤ちゃんの前で言う。

赤ちゃんは大泣き。

 

立派な虐待である。

 

 

そんな具合の理不尽な「英才教育」が延々と繰り返され、

中学校三年生あたりから、若白髪がぽつぽつ生えてきたとおもったら、

高校生当たりにはそれがくっきりとわかるほど増えてきたわけです。

 

 

 

 

パソコンが家に来て、

掲示板で知り合った女の子の相談に乗ってあげていたら、

勝手にメールや手紙を開けられて、

「あいつとは手を切れ!」

 

 

そして、

ついに、高校三年生の春。

 

学校に友達がいないことが分かる。

 

そこで、私が学校を休んで漫画を描いていたら、

夜中に部屋を蹴られて、大声で、

 

 

「お前なんか生まなきゃよかった!

お前なんか死ねばいいのよ!」

 

 

そう、泣きながら、怒鳴られた。

 

「あんたのためにどれだけ、人はやりたいことも我慢して、

金をつぎ込んできたと思ってるの!?」

 

 

 

 

 

 

ついに、その日から、

私のリストカットが始まるわけです。

 

 

 

なぜ切るのか。

 

 

今でも、正確な理由は正確に言語化できない。

 

 

「切った時はどんな気持ちだった?」

と傷跡を見られて聞かれても、

どれだけ正確に言語化しようとしても、その深いところまでは入っていけない。

 

いわば、その切っていること自体がひとつの言語のような。

 

 

リストカッターの青少年は、おそらく山ほどいるだろうけれども、

同じリストカッターだった私でも、その気持ちは分かりません

 

 

理由も事情も人によってそれぞれ違うし、出口もそれぞれ全く違うだろうから、

一般化はできない。

 

 

ただ、

「そのままの自分に生きている価値がない」

「自分で処理する術の分からない憎しみや自己嫌悪を抱いている」

ということは共通するのではないでしょうか。

 

 

 

親に腹が立った少年が、切れて、壁に穴をあける、

家出をする、

破壊行為を行う、

非行に走る。

 

私は、それらのすべてをすることが出来なかった。

 

一時的な、怒りの感情で、何かを破壊してしまったら後で後悔すると思っていた。

 

 

その破壊衝動が、内に向かったにすぎない。

 

 

自分に対する怒りとか、

許せなさとか、

悔しさとか、

そんなものを、痛みという形で、流血という形で、自分の体に刻み込む。

 

 

皿を割るとか、

サンドバッグを叩くという方法ではいけない。

 

自分の体をこれでもか、これでもかというほど、傷つけるという手段で、「すっきり」する。

 

 

アドラーによれば、自傷行為の目的は、

「復讐」にあるといいます。

 

つまり、傷ついている自分をみて、

傷つけている親が慌てふためき、狼狽する。

 

直接傷つける方法ではなく、

自分を傷つける姿をみせること。

それによって復讐を試みるのです。

 

 

たしかに、それでした。

 

 

 

「お前のせいで、

俺はこんなに傷ついてんだ。

分かってんのか?

 

俺が苦しむことでお前を苦しめてやるよ。」

 

という復讐の心理がある。

 

 

 

それだと、当然、

子どもも親も自由になれない。

 

自分の人生を生きることはできない。

 

 

さらに、リスカなんかしていると、

「つらかったねー。何があったの?相談に乗るよ」

なんて言ってくれる心優しき人などいない

一人もいない。

 

人間、辛い時に限って、助けてくれる人なんて出てこない。

 

いつも出てくるのは、今更という時だ。

 

 

「やめたほうがええで。」

「えー、キモちわるい。」

「強く生きろよ。」

 

そうやって長々とアドバイスを一方的にしてくる。

 

そしてそれはたいがいが焼け石に水。

 

 

 

私がもし、過去の自分と同じような苦しみを抱えて自傷をしている人を目の前にしたとしたらどうだろう。

 

多分、ただそばにいて話を聞いてあげ、

「ここはお前の居場所だ。」と本人が答えを出すまでのんびり待つことくらいしかできないでしょう。

 

 

 

 

 

 

それはそうと、

私の人生のベクトルの一つに、

「親の期待をとことん裏切ること」

というものがセッティングされました。

 

 

 

親が国公立に行けと言われたら、私立を選ぶ。

 

 

そしたら、親は慶応に行ってほしいというので、

上智を選ぶ。

 

 

 

 

上智を選んだわけは、

夜回り先生の水谷修先生が、私の高校に講演に来てくれたことでした。

 

彼は、上智で人生を変えられたのです。

 

 

リストカッターの私は、よく先生に相談していました。

 

夢は、水谷先生のような教師になることでした。

 

どんな子供も、愛し許しぬき、一緒に歩み続けるそんな大人に。

 

(それはもろくも正面から打ち砕かれました。)

 

 

 

 

就職してほしいと言われたら、大学院に行くという。

 

大学院に行くための先回りをされたら、

わざと卒論だけ落として留年。

 

 

 

そうしたら、半狂乱になって寮までやってきて、

 

「公務員になりなさい!」

と学校を勧めてくる。

 

勝手に二十万円払われ、

「ここまでやってあげたんだから」。

 

 

 

留年して就職活動を始めて、

50社受けて一社も採用されず。

 

というのも、働く気がなかった。

 

精神疾患を患って、生きている事すら辛いのに、その上さらにもっとしんどいことが待ちかまえているとなると、

もう何もしたくない。

 

就活中にパニック発作を起こすも、

収まったらまたエントリーと面接。

 

死んだほうがましなのだが、

死ぬ勇気もない。

 

でも、世の中も社会も、

「死ね、死ね」と言わんばかりに無言の圧力をかけてくる。

 

 

 

 

で、結局就職は決まらず、

あれだけ嫌だった親のいる実家に帰ることになりました。

 

ずっと引きこもりです。

 

もう本当に万策尽き果てて、

病院すらも行くのが辛い。

 

親はそれでも必死に、がんばれがんばれ。

 

 

体調が悪いのは、「悪霊のせい」と言ってくる。

 

 

 

病院からも来るのを断られる。

 

 

幼い時から、

本当に何もかもを犠牲にして頑張ってきました。

 

親も、私を医者か弁護士にするために、

大きな金をはたいて、天才児教育を施してきましたが、

結局そのすべてを水の泡にして、どぶに捨ててしまうこととなったわけです。

 

 

ザマアw

 

 

 

以前から、死ぬことを考えていたのですが、

ついにその時が来たなと思って、

遺書を書いて、

手首を切り、薬を一気に焼酎で流し込んで、首を吊ったわけですが、失敗。

 

 

いや、繰り返し言われてきましたよ。

 

「自殺したら、天国に行けない。

地縛霊になって、地上に縛り付けられるから死んじゃ駄目ですよって。」

 

だから何って話。

 

それは、俺の苦しみを癒してくれるのか?

俺の本当に求めているものに対する答えなのか?

 

 

 

誰にも気がつかれず、

翌日も普通に引きこもりを続けていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

あーーーーもうここまで書いてきて、

 

「バカ親!俺の青春を返せ!」と叫びたい。

 

 

あー、もう俺の人生は何だったんだ。

死にたい、

と思っても、受け止めてくれる人も、わかってくれる人もいないものなので、

自分で自分を幸せにしていく以外ない。

 

 

「親には感謝しなきゃだねえ。」

 

「あらあとってもいいお母さんじゃないの」

 

「子を愛さない親はいないわよ」

 

などという無責任な美しい言葉が、

より一層、

「ああ、結局誰にもわかってもらえないのだなあ」

という絶望感と孤独感を深める。

 

 

 

で、です。

 

その流れが一気に変わったのが、

 

自殺したことをある神父さんに話したんですね。

 

告解で。

 

 

そしたら、

 

「クリスマスに、メッセージ添えて、何かプレゼントしなさい。

いいですね。」

 

 

「は!?ざけんな。絶対無理」

 

 

とはいえず、

形だけやった。

 

 

次の日、

いつもだったらヒステリックな感じになる状況で、

母は、

柔らかい感じの対応になったわけです。

 

 

 

「!?

 

 

珍しい。

 

ま、今日だけやろ。」

 

 

 

ところが、徐々に母は穏やかになっていったわけです。

 

 

 

 

しまいに、

 

「あなたが私たちのところに生まれてきてくれて幸せです。」

 

「あなたは私たちの宝ですよ。」

 

「大丈夫。あなたならできる。」

 

 

など、

それまでとは百八十度かわった人格に入れ替わってきたわけです。

 

 

 

いやあ、びっくり。

 

 

え?

 

なに?これ?

 

なんで?

 

 

 

あと、

私は内観法というのをやり、

お母さんに、やってもらったこと、してあげたこと、迷惑をかけたこと、

というのを逐一思い出していくわけです。

 

「された仕打ち」は本人に還す(笑)

 

 

気が付いたことは、

 

「うわー、

された仕打ちばっかり覚えてて、やってあげたことなんて全然ないやん!」

 

ということでした(笑)

 

 

 

まあ、親の呪縛から自由になるためには、

親の課題なんか切り捨てろってことですね(笑)

 

 

 

 

 

しかし、

結婚前に、これらのことをすべて話しても、

 

「あらあ、そんなことあったかしら、よく覚えてるわねえ。あなた。」

と、吹く風である。

 

 

そんな母親も

今は、とても穏やかで、全く別人のような

「いいお母さん」になってしまった。

 

 

 

長年続いた、親との葛藤の課題は消え失せてしまったのです。

 

 

 

 

では、私は、「あの時」どうしてほしかったのか。

 

 

どうもしてほしくなかった。

 

 

ほっといてくれたらよかった。

 

 

自由にさせてほしかった。

 

 

好きなことに思う存分打ち込ませてほしかった。

 

 

「親は親で、子どもの事なんかほっといて、

自分の好きなことを楽しんでいてくれたら、

子どもは子どもで勝手に成長して、人生楽しんで成功していた。」

 

そう思うのです。

 

 

 

 

あと、誰か私にに言ってほしい。

 

 

「本当に良く頑張ってきたね。」

 

「良くここまで生きて来たね」

 

 

 

 

どうせ誰もこんな記事は読んでないだろうし、

誰もいってくれないだろうから、

俺は俺に言う。

 

「良くここまで頑張って生きてきたなー!」

 

「俺はお前の辛さも頑張りも全部知ってるよ!」

 

「もう、これからは大丈夫だ!」

 

 

 

そして、このセリフは、

神様が自分を通して言わせたことば。

 

 

私を本当の意味で生かしてくれたのが、イエス・キリストの神様、天の父なる神様。

 

あの辛い時も、絶望の時も、

私の苦しみを担い、いつもそばにいて、愛し抜いてくださっていた存在がいて、

そして、どんな苦しみや絶望をも、幸せに変えてくださるお方。

 

 

わが子にも言いたい。

 

いつか辛いことがあったとしても、

大丈夫だ!

 

 

「父ちゃんは父ちゃんの人生を生きるから、

 

お前はお前の人生を生きなさい!

 

お前は愛されていて、そして自由だ!」