天国に行ける人はいるのか。 | 救魂録

救魂録

カルトや発達障害や自己啓発など潜り抜けてきたカトリック信徒のブログです。

 

 

 

色んな別々の方面から、死後の世界の事を調べると、

やはり、言っていることは「全く同じ」ではないにせよ、「その本質」は共通しているようです。

 

これは、西洋東洋古今東西、共通しています。

 

魂は不滅であることはもちろん、

光の玉が迎えに来るとか、

三途の川を渡るとか、

亡くなった人と感動の再会を果たすとか、

死後自分の人生を見せられるが、責められることはないとか、

生前の思いや行いによって死後の行き先が決定されるとか、

人にはみんな守護霊がいて、その奥に専門的なお助け霊もいるとか云々。

 

 

死に関して言えば、

私は、死後の世界というのは楽しみではあるのですが、

「死ぬ」のは怖いです(笑)

 

 

 

あと、

「自分を選んで生まれてきた」という子どもがたくさんいますけれども、

 

「私は」、自分で生まれたくて「自分で望んで」生まれてきた覚えはありません(笑)

 

 

でも、

神さまから、使命を与えられて、「向こうから望まれて」生まれさせられてきた、

という実感はとても強い(笑)

 

 

 

「自分から望んで」

よりも、

「よし、お前、頼むぞ!」

と派遣されて、出てきたという感じが圧倒的に強い。

 

 

 

 

 

 

多分、自由意志でオッケーしないと、生まれてこれないので、オッケーしたのだと思いますが。

 

 

そういう「役割」が私には与えられている。

 

 

 

なので、しっかり生きている間に、

やるべきことをちゃんとやらないとと思っています。

 

 

 

生まれてくるのも、死ぬのも、

私の「自由意志」や「記憶」は覚えていません。

 

それは、「存在意志」「生命意志」に関わる領域です。

 

 

 

この世界で、

友達もできて、大好きな皆さんと出逢えて、

ああーやっぱり生きているっていいなあと思いますが、

 

死んだあと、

「もう一回、転生してください」

って言われたら、

 

「いや、もういいです。

別の人、お願いします。」

となる(笑)

 

 

 

何が嫌かというと、

辛いことやたいへんなことが多いことはもちろんですが、

魂を汚さなければいけないようなこと、

すなわちというものを作りながらでないと生きていけないと言うことなのです。

 

それが、とても嫌なのです。

 

 

おそらく、

人間が生まれてくる目的の一つに、

艱難辛苦の中で、魂を磨くこととか、心を美しくするとか、

人の幸せのために生きて、世界を少しでも良くしてくると言った「神さまとのお約束」があると思うのです。

 

ふと私たちは何かのきっかけで、

心の奥深くで、神様との約束を思い出して、

心を正して、もっと人に優しくしようとか、人の心に明かりをともそうとか思うわけです。

 

私たちの良心、すなわち魂の声は、

神を求め、善を為し悪を避けるように命じ、

より一層神さまに近づく美しい心でもって元居た場所に帰るよう呼びかけます。

 

 

 

 

 

 

 

 

ところが、

魂ではそれを分かって、憧れ、また天上に昇るべく祈るのですが、

肉体を持ってしまうと、

ありとあらゆることが、魂の美しさを穢す誘惑となり、

神を見えなくさせてしまい、もはや戻る道がないほどみじめになるものなのです。

 

 

 

「自分が正しい」と思って、人を傷つけないことはないですし、

人から理不尽なことを言われて、相手を何度も心の中で繰り返し裁き「地獄に堕ちろ」と思ってしまわないこともない。

 

許しますと言いながら、嫌な相手の幸せを祈りながら、実は全然許せていない自分の中に吐き気のするような偽善を感じる。

それでも、相手には不幸になってもらいたくもないし、かといって幸せになってもらいたくもない。

 

愛と平和が大切だ、魂はすべて一つにつながっていると言いながら、

分裂と孤立を作ってしまう私たち。

 

感動して涙を流して、平和で敬虔で穏やかな安心した気持ちも、

一時間たてば、イライラと退屈に引き戻されてしまう。

 

自分の事を棚に上げながら、他人や世の中の嫌なことばかりベラベラと話して、

問題のあるあいつらと、そうじゃない自分を線引きして安全圏で好きなことを言える私たち。

 

苦しむ人、助けを必要とする人が目の前にいたとして、

手を差し伸べれば、自分まで不幸のどん底に引き込まれ、

そのまま申し訳ない思いで立ち去れば、隣人を愛さなかったことになる。

 

自分が嫌だと思う相手の性格をそのまま自分が丸ごと持っていたりする。

 

良かれと思って愛だと思ってやったことが、

人を傷つけていたりする。

 

ただ普通に生きているだけで、人に迷惑をかける。

 

社会全体が、生産性のために弱者を圧迫することを正義とするような流れの中で、

生産性のない者を切り捨てねば、全体が滅びてしまう中で、人を切り捨て路頭に迷わさねばならない状況。

 

圧倒的な自信を持って胸を張って、

「私は正しい人だ!神の前で恥ずかしくない!」と言っている人間ほど、

最も、人を裁いて何とも思っていなかったりする。

時に、

「私が個人的にお前を嫌い」

ではなく、

「神様はお前を地獄に落とす」

と、神を使って自分の欲望を代弁させる。

 

時に、神でないのに、自分を神だと思い込んで、

正論で、人を裁き、支配し、恐怖に陥れる。

 

救いの経験が強烈であればあるほど、

影のように私たちの相手を省みない「押し付け」は、増す。

 

いいことをしていたつもりが、

実は自己満足であったり、他人からよく見られたいからであったり、

純粋にその人のためにでなく、自分の救いのためからしたことであったりします。

 

自分は純粋な被害者であると思っていても、実は一方では一番の加害者であるということもあります。

 

世の中の多くが、

建前と偽善と打算で動いているし、そして、それが「普通」なのです。

 

 

そして、誰しもが腹に一物隠し持ちながら、

普段は「善人」として、

マイノリティの排除であるとか、差別の促進であるとかに、嬉々として邁進する。

 

 

人間の脳は、いじめをやめることが出来ないようになっているといいます。

いじめっ子といじめられっ子は、同一人物であることが多い。

 

また、排除や差別は、決して狂気からではなく、私たちのごく当然の調和と秩序を重んじる社会性やモラルから「正義」として生まれるものです。

愛の交わりや連帯が強ければ強いほどそれは、異質な他者を排除することに繋がります。

 

 

右に行けば、危険と言われ

左に行けば、偽善者と言われ、

中に行けば、優柔不断と言われ、

どちらに言っても結局、同じ種類の非難にぶちあたります。

 

 

私たちが、正しくあろうあろう、

よくあろうあろうとすればするほど、

「根本悪」は私たちの体内にいやらしくとりつきます。

 

誰もがこの根本悪から逃れられないものだから、

「まあまあ、みんなやってるしそんなもんだよね」と言いながら、ごまかす。

 

そして、一方で、集団にそぐわない者や異端者を、鬼の首でも取ったかのように断罪します。

 

 

 

 

 

もし、

他人や社会や法律はいい人として、ごまかせても、

私たちのそうした心の中の部分すらも全部神様の前ではごまかせないとしたら・・・。

 

果たして、天国に行ける人はいるのでしょうか。

 

 

 

 

もし、神も霊魂も存在せず、世界は物質の集合離散で、死後無になるのだとしたら、

割り切れますが、それは、底なしの虚無です。

 

 

一方、正しき神が存在して、

霊魂は不滅で、私たちの魂が清く正しく美しく愛を持って、幸福に生き、神に近づくように向けられているとしたら、

まさに、その神様が魂に植え付けた基準ゆえに、

照らせば照らし合わせるほど、私たちは、自らの中に天にふさわしくない自分を発見するのです。

 

 

 

例えるなら、

両手両足に10キロずつの重りをぶら下げられて、

天に向かって山登りを命じられるほど、

過酷な難行のようにも思われます。

 

 

この重りというのは、

人間のもつ「罪」です。

自己中心性です。

 

この自己中心性は、

運動すれば汗が出るように、生活すれば垢が出るようにごくごく自然な現象として、生まれてきます。

 

 

この重りは、

自力の修行で取れるかというと、

完全に不可能とまでは言えないが、かなり厳しい。

 

 

 

かなりの意志を持って、罪の誘惑に打ち勝ち、

天まで上り詰めたとしても、

両手両足には、相変わらず罪という鎖がぶら下がっている。

 

 

天が、実は「有頂天」の天に過ぎず、

自分の努力を誇り、そうでない人を裁き始めるような心があれば、

やはりその人も罪を免れていないのです。

 

 

「本来、罪はないんだ!」

「もう、君は罪の意識にとらわれる必要はない!」

「罪の意識を持てばより一層それは現実化する。より明るい建設的なビジョンだけを描くのだ!」

といったところで、

それは、単に自己中心性を「忘れる」ことに成功しただけなのです。

 

「そこまで自分を責めないでも・・・。」

「みんな同じなんだから、アバウトに行こうよ、アバウトに。」

とつい、声をかけてあげたいところですが、

そういうことは、私たちの魂のうちに清き道徳律を命じた神を欺くことにもなります。

 

「内省」をして心の曇りを取ることが大切だと言います。

 

とても大切なことです。

しかし、私たちは往々にして、「取り返しのつかないことをしてしまった」という呻きや後悔、

もしくは、理不尽や不条理に、

「内省」では浄化しきれない重みを持っているのではないでしょうか。

 

 

瞑想をしても、

反省業を重ねても、

完全に清らかな霊魂をつくるには、

完全にはなれない。

 

 

 

お釈迦様や、煩悩を完全に滅却し「阿羅漢」と呼ばれるようになった修行者であれば、

まあ、可能かもしれない。

 

お釈迦様の片腕である、シャーリプトラは、

いきなり悪意を持つ人からこん棒で殴られても、何一つ動ぜず、そのまますたすたと歩いて行き、

謝った男の人を褒めることまでしたといいます。

 

仏道者は完全に怒りという感情からは無縁で、四六時中完全に清らかな心でいることに成功した人なのです。

 

「八正道」をきっちりやればまあそこくらいまでいけないわけではないかもしれません。

 

阿羅漢の境地まで達した人は、お釈迦様の時代に500人いたといいますが、

五百羅漢というのは今の時代にも仏像になって、一人一人名前が残っています。

500人と言うことは、これは、東大に入ったり、インターハイや甲子園にいくよりも、ハードルが高そうです(笑)

 

ある、仏教の高僧のお方の本を読むと、

煩悩を離れ、無知を脱却し、心を穏やかにする道が説かれているのですが、

諸宗教に対してのあまりの無知と誤解から来る批判があるあたり、

「完全な人間というのはいないのだなあ」としみじみ気が付きます。

 

 

 

人間はすべて、矛盾に満ちた存在。

心の奥底では、清く正しく愛に満ちた存在であること憧れ、また招かれながら、

ある程度は、人を愛することも正しく生きることも心を磨くこともできる。

 

しかし一方では、

愛や正義や平和ゆえに、

人を傷つけ、排除し、恨み憎しみ、

自分を正当化し、裁かずしては生きていくことのできない存在。

 

矛盾を感じながらも、

痛みを感じながらも、

「これでよかったのだろうか」「いや、これしかなかったのだ」

と、良心に呵責を抱えながら、

冷酷な行いを選択して、

人を傷つけ、迷惑をかける。

 

しまいには、天を恨み、天を呪い、

人に裁かれ、世に捨てられ、穢れ切っていくものなのです。

 

 

 

そんなことを考えていたら、

胃がきりきりと痛み、脂汗が出てくるほどしんどくなってきました。

 

 

 

 

「こんなことを考えて苦しんでいるのは私だけだろうか。」

「必要以上に思い悩んでいるだけなのではないか。」

 

と恥ずかしくなって、

こういうことは、あまり人前でも話さないようにして、

自分でもそういう想いが出てきたら、見ないようにして、

つとめて明るい方向楽しい方向に心を向けるようにします。

 

 

ところが、

抑えつけたものは、ふとしたきっかけで、私たちの脳内に揺さぶりをかけてきます。

 

かといって、正面からそれを見つめたところで、袋小路でしかありません。

 

 

 

 

でも、ちゃんと同じようなことを考えていた人がたくさんいました。

 

 

 

アウグスティヌス先生

 

内村鑑三先生

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親鸞聖人

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ちょっと長くなってきたので、

「救い」のところに関しては、また次回。