全ての人を救う愛。 | 救魂録

救魂録

カルトや発達障害や自己啓発など潜り抜けてきたカトリック信徒のブログです。

オールソフィアンの晴佐久神父の講演会より。

 

 

 

 

映画『沈黙』について、「ここまでして信じなければいけないのか?」と正直な気持ちを語ってくれた方がいます。

では、一体、どこまでならできるのか?
自分がいつも心しているのは、「優先順位を間違えない」ことを「自分の優先順位のトップに持ってくる」こと。

いつでも優先順位のトップに来るのは「愛」です。

この時代に、この場所で、この仲間と、普遍的な愛を実践する。
 

ある青年が地域の青年会の活動に忙しく、日曜の礼拝に来ないことを、このように責められました。

「そんなところに行ってはいけないよ。彼らは救われない人たちだ。あの人たちのところにイエス様は行かないよ」と。
 

これは、果たして愛に基づいた言葉だろうか?

 

あの人のところには共にいて、この人のところにはいない......、イエス様はそういう方ではない。

すべての人と、世の終わりまで共にいる。それがイエス様。

イエス様は私たちを愛しているので、私たちと共にいたいのです。

人を分断するような、選民主義や分断主義が横行している今この時代に、普遍主義的な信仰への第一歩を我々は進まなくてはいけません。

 


 

話を『沈黙』に戻すと、神はイエスに殉教を求めたのだろうか。

あえて言うなら、イエスは「愛」に殉じたのであって、「教え」に殉じたのではない。

自分が十字架につけられる前に使徒たちを去らせたのは、ほかの人を死なせたくなかったから。

「私が十字架を背負って死ぬから、もはやこんな野蛮なことのために誰も犠牲にならないように」というのがイエスの愛です。
イエスは、踏み絵を「踏んでもらいたい」のです。

「踏んでもいいよ」ではない。

そこにある「自分は死ぬから、皆は生きてくれ」というメッセージを受け取らなくてはいけません。

 

映画『沈黙』を観た自分の感想は、「かわいそうすぎる」。

過去たしかに、「この教えを信じないと救われない」と教えていた時代があった。

 

もし、もう一度歴史を巻き戻せるなら、生まれ変わって、ザビエルと一緒に伝道したい。

「こうでなくてはいけない」と分断する教えは伝えたくない。
あの時代のあのような拷問は、ないに越したことはない。

なんとか、あの人たちを救いたいという思いで、映画を観ていました。

棄教したとされるキチジローもかわいそうすぎる。

近くに行って、「あなたのところにこそ、イエス様はいる」と語ってあげたい。
 

 そしてこれは、過去の話ではありません。

いまも、つらい思いを抱えて生きている人はたくさんいる。

その人たちに「あなたはもう、何をしようと、しまいと、救われている」と伝えたい。
 

この映画を試写会で観たときに、一緒に観たキリスト教司牧者たちが感想を交換していた。

「いやぁ、こんな迫害があったら自分の信仰を守れるかどうか不安ですね」「そうならないように祈るだけです」という声が聞こえて愕然としました。

この会話にはまったく愛がない。

関心のポイントは、自分が信仰を守れるかどうかではなく、この人たち(映画の中の登場人物)をどうやって救うか、でしょう。


この映画は、今の分断の時代にどのように人を救うかという、スコセッシ監督からの問題提起です。

あの歳で、あの映画を撮ったのは、遠藤周作の『沈黙』に感動し、その普遍主義を世界に伝えたかったからにほかならない。

でなければ、高齢でこんなつらい映画を撮影する必要はないんです。


実は、どの宗教にも原理主義的なものと、普遍主義的なものがある。

宗教を「〇〇教」という宗教別に縦割りで見るのではなく、横割りで眺めてみると、そこにはグラデーションが見えてきます。

その一番上の透明なところは、共通する「愛」である。

原理主義的な真っ黒い部分から人を救いたい。


別の宗派の教会に話を聞きに行くという人を

「ぜひ行っておいで。

そして、どんないい話だったか、帰って来たら聞かせて」と送り出したい。

「そこには行くな」には愛がなく、 思考停止した二元論に逃げ込むだけです。

『沈黙』はまさにこの現代のこと。


福音を聞いて、すべての人が、すでに救われていることを知りましょう。

洗礼を受けるから救われるのではなくて、救われていることに目覚めたから洗礼を受けるのです。


現代のキリスト教の中にもなお残る原理主義には危機感を感じます。

原理主義的な教えから人を救うことは大変なこと。洗脳からの脱却の途中過程で「やはりそこに戻らないと救われないのではないか」という危惧にかられる人が少なくないから。とらわれている人を救わなくてはいけない。


分断と排除の時代を終え、普遍主義への第一歩を歩みましょう。

普遍主義こそが、人類が生き残って行くための道です。

そのために、普遍主義的な言葉と普遍主義的な集いを車の両輪として、血縁主義も乗り越えて、福音によって結ばれている「福音家族」と共に歩んで行きましょう。


日本におけるキリスト教は始まったばかり、いや、まだ始まってもいない段階です。

 

 

 

キリスト教と、他の宗教や思想を対比して、その誤りや不完全な点を指摘する本やサイトがあります。

やたらと、「悪霊の仕業だ」「キリストに依らなければ救われない」「そんなことは聖書に書いていない」

「危険だ危険だ」というあんたの方が危険だよと、思う事があります。

そして、最後は、「ここでしか救われることはない。」

 

ひとつの純粋な信仰を命がけで守ろうとする姿勢は尊敬に値しますが。

 

宗教という組織ができることは仕方がないことですし、また必要なことです。

しかし、組織の事しか考えなくなると、その内向きな姿勢に息が詰まる想いがします。

 

「こんなんじゃだめだ。

修行が足りない、祈りが足りない・・・

もっと必死で、命がけで祈らねば・・・」

 

そう言われ続けてきました。

 

一体、どこに向かって叫んでいるのか、

誰に向かって祈っているのか、

何も感じられず、空しさと疑いの日々が続きました。

 

自分が自分でいられず、

誰かの期待に応え、

ひたすら息苦しいのですが、それを誰にも言えませんでした。

 

ある時本当に疲れてもうこれ以上は無理だという風になりました。

限界を乗り越えて、突破することも、自分のうちになる無限のエネルギーとつながるとかいうことも無理でした。

 

実は、そんなボロボロの自分を支えて痛みや孤独を理解し、共に居てくれたのがイエス様であったのです。

 

 

そこから、私の祈りや信仰は変わりました。

 

「祈れば応えられる」

以前に、

「どんな私をも見捨てず、ただ、私が私であるというだけで愛してくださる。」

 

 

私自身の中にも、この原理主義は確かに存在することを認めます。

 

それでも、普遍主義に向かって、一歩一歩進んでいきたい。