日本の諸宗教に対して批判される牧師さんの本に対して。 | 救魂録

救魂録

カルトや発達障害や自己啓発など潜り抜けてきたカトリック信徒のブログです。

 

ある牧師さんの本を買う。

多くの人から批判されることを承知の上、日本の諸宗教をとことんご批判されており、

「何か不備あればご指摘ください」とおっしゃられておりました。

 

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ので、思うことを。

 

ちなみに、私は日本の神道、仏教大好き。

というか自分の一部で、異教ではない。

かと言って、なんでもいいとごっちゃにしているわけでないし、

シンクレティズムでもない。

他の人にもそうするべきだと勧めたいわけでもない。

 

「神社や仏閣入ったら、地獄に落ちる、破門、悪霊の神殿」と言い、油撒いたり、燃やしたり破壊しようとするクリスチャンは大嫌いです、クッソ大嫌いです。

 

そんな「キリスト教」は嫌いです。

 

ロクに調べもしないで、片寄った情報だけで、断定して上から目線で裁く、

唯一の正しい神さまを信じている頭の固い人々の群れに入って救われるより、

何も信じてないけれども、

真っ直ぐに人を愛し人助けをしている人の方がよっぽど好きです。

 

 

昔そんなことを言われたことがあったので、

 

意地でも、

 

 

そういうところを知りながらも、

やはり私にとってはイエス様が一番です。

 

 

 

確かに、日本の伝統宗教に堕落した形態は見られ、

その点は、著者に同感です。

 

四国遍路をしていたとき思いましたが、

確かに、伝統仏教の腐敗は、「末法」どころか「滅法」とさえ思うことがあります。

 

坊さんは愛人を何人もつくり、ベンツに乗り、金をため込み、

死ぬ前の人が、極楽に行きたいからと御朱印帳や袈裟を盗んで高値で売ったりという話を聞きます。

 

「仏法は寺にない、道端にある」

そういう話を別のお遍路さんとしながら、歩いていた覚えがあります。

 

空海の三教指揮や秘蔵宝鑰や弁顕密二教論、

唯円の歎異抄を読んだ時の、

あの宇宙的でありながら人格的な出会いのある感動は、

寺にはない。

 

また、欲望に漬け込み、お金儲けに走り、

霊的な世界を語り地獄に堕ちると脅す宗教に関する批判も同意できます。

 

うちの母は、とある新興宗教の会員で、私も二世信者でしたが、脱会。

何百万もする御本尊に、何万円もする祈願に、

大量の本やチケットを自腹で購入しては、ため込み、

自分で何回も映画を繰り返しみて売り上げを上げる、

映画館では、信者と思しきおばちゃん軍団が、上映中もひたすら私語を続け叱られるという光景もあり。

 

それで、幸福になったかと言ったら、

うーーん、というところです。

 

集まる人自体は純粋で良い人で、そこらへんにいる普通の仁。

あれこれ語り合えたのはいい思い出ですが、

やたら、苦しくなる教え。

 

世界の諸宗教や政治、成功哲学などをよく学んでおられ、その不備を指摘し、

自分を上に置き、

あらゆる教えの完成者、統合者として、自らを至高神として崇拝させています。

絶対的帰依をとく。

 

彼は失敗しても、迷惑をかけても、

絶対に謝りません。

 

反対者は脅しをかけ、地獄に向かっていると言い、

これも「全人類普遍の教え」を名売って、一見普遍主義に見えますが、

実体は最悪な形の原理主義です。

 

私が、諸宗教対話を大切にし、包括的な視点を持ちたいと思っている姿勢や読書の習慣などは、

こうした宗教にはじめに出会っていた恩恵はありますが、

 

まあ、脱会して、楽になりました。

 

本当に楽になりました。

 

 

こうした宗教が出てくるのも、

私は堕落した伝統宗教の形態に原因があると思っています。

 

本当の救い、まことの幸せを宣言できない。

教派の壁の中に閉じこもっている。

 

これでは、度重なる挫折の中から「啓示」(=躁的防衛)を受けた教祖が、諸宗教のいいとこ取りをして、神になってあれこれ訴えるのもうなづけます。

 

現代人のニーズに合わせた教えや、壮大な霊の世界は魅力的です。

 

 

 

 

まあ、私個人がいくら批判をボヤいても、

「二階に目薬」以上に不毛なことでしょうし、

ほとんどそうしたことは興味の対象から逸れていることです。

 

 

「偶像崇拝」に関しては、確かに迷信で科学的でなく非合理かもしれませんが、

 

「引き寄せの法則」「思考が実現する」にせよ、「潜在意識」の領域に関することは、

近年色々言われてきて、

本当に深く信じることは対象が何であれ、迷信であれ、偶像であれ、

「奇跡」は起こるということです。

 

「イワシの頭も信心から」

 

ですので、ゴミ捨て場の鳥居や、仏像でも人が祈りはじめたら霊験あらたかなパワースポットになっちゃう。

 

そこら辺の石ころを拾ってきて、

毎日、感謝を込めて握っていたら、

いいことが起こる。

 

多くの成功者と言われる人々は、

ちゃんとこの潜在意識のエネルギーの法則を知っていて、

ある程度上のところに行くと、

ほとんど同じことを言います。

 

見えない無限の知性を持ったエネルギーが自分を生かし、関わっていることを知っていて、

それが何かとか余計な詮索はしないが、

いつも感謝を欠かさない。

 

便宜上「神さま」と呼んでいるが、名称にはとらわれない。

 

なんでも理性と実験と科学のみで割り切る頭の良い人には、

「なぜそんな不合理で非科学的なことを臆面もなく、、、」

と疑問に思われるし、インチキや詐欺と捉えるかもしれませんが、

本当にそうなものはそうなのですから。

 

論理や知識って、

大脳皮質の前頭葉にインプットされたものに過ぎず、

生命の深いところの声は、

理屈でない、直感とか、

「なんか知らんけど」という領域、

「流れ」という感覚

「みんなつながってる」という感覚、

 

そして、そっちの声に従った方が、

「なぜか知らんけれどうまくいく」。

 

じゃあ、頭の声を捨てた方がいいのかというと、

「道具」としてすごく優秀なので、

正しい使い道で使う。

 

頭でも人は、神を知ることはできますが、それも限界があります。

 

インチキ宗教の反動で、

大学生時代の私は、なんでも理屈と知識でそうした神さまのことを捉えようとしていましたが、

いのちに触れるためには、

いったんそういう武装を解除して、潜在意識を信頼すること、が必要でした。

 

 

しかし、

落とし穴もあると思っています。

 

対象が何であれ、

深く信じたら奇跡やある種の神秘体験はあるゆえに、

それが偶像であろうが、インチキ教祖であろうが、引っ掛かり、

高い金品や時間や労力をそこに注ぎ込むことになる。

 

「奇跡なんかあるわけない」のに信じているのではなく、

「奇跡なんかがあった」から信じちゃっている。

 

 

また、地に足のつかない、

壮大な宇宙的な世界にふわふわ行っちゃう。

 

それらは、確かに魅力的です。

 

私自身は、唯物論を退けますし、はるかに及びもつかない霊的な世界の実在を確かに信じていますが、

「知ろう」とは思いません。

 

スウェーデンボルグやシュタイナーなど、霊界を垣間見て体系化した人はいます。

 

 

仮に、特別な許可があって、わずかに黙示されたとしても、

それは自分が特別だとかいうことではなく、

役割あってのことです。

 

「知らない」

けれども、「信じる」「委ねる」という謙虚な態度が、

人間の分であり、なすべきことです。

 

そして、ある意味では、

特別な能力があり知ったり見ることのできる人よりも、

「見ないで信じることのできる人」の方が幸いである、

そちらの方が強いと思っています。

 

 

 

霊的な世界に関する知識を持っていることが、救いにつながってくる。

霊的選民思想的なエゴが出来上がる。

 

「私が神だ」はいいんだけれども、

他者のうちに神を見出さない。

 

もしくは、

神さまを

自分の欲望だけを叶える自動販売機や、都合の良い取引相手になってないか、

ということです。

 

人間の欲望のために、神様を作り出して、

それを操作したり、取引をしたりしている。

 

「これをしたら、これが叶う」

と一生懸命、

毎日、アファメーションをしたり、ビジョンを貼り付けたりするのですが、

叶わないので、

いろんなところに助けを求めてジプシーになっちゃう。

 

それは、いずれ、自分を取り込んで、

それに振り回されて生きるようにならないかということです。

 

そこに、本当の安心、救いがあるかといえばそうではない。

やはり、人格的で暖かい、共にいる交わりが必要で、

「存在のニーズ」を満たすスピリチュアリティーこそ根本的なものです。

 

もっとはっきり言えば、

説明でなく、ありありとした実在に直に触れて、

生命が一変させられること。

 

個人的な欲望や成功のみに汲々としていると、人は孤独や虚しさに陥ります。

人と人との暖かいつながり、

誰かのために、真っ直ぐに愛する、応援する、助ける、

そういう「生き方」の部分が大切なのではないでしょうか。

 

どこかで引き寄せをこえた、

自分の弱さや罪、限界に躓き、

明け渡し委ねる状況から出会いが始まります。

 

 

引き寄せの法則は方便だと思っています。

神と人間の関係を親子関係に例えれば、

神様のほうは、自分に気がついて欲しくて、

見えない世界があることを示して、

「こういうことをしたら、いいことが起こるよ」

と言います。

子どもは、お菓子やお小遣いをゲットしてご満悦ですが、

親のことを、金ヅルくらいにしか思っておらず、

本当の親心には目覚めません。

 

やがて、

これだけではいけないんだ、

となって、

本当の神の愛、幸せに気が付き、

自分の望みではなく、

神の望みを聞いて従うようになっていきます。

 

自分の成功や自己実現のみを望んでいたのが、

神の生命のみを求めるようになります。

 

 

 

イエスはたくさん奇跡を起こしましたがそれで人が救われることはありませんでした。

やはり、どんな自分でも無条件に愛されている体験が人を根本から変容させたのです。

 

 

ちなみに私は神社ではお願い事はしません。

 

というか神社では、多神教の一神に対して祈っているわけでなく、

本当は自分の心の深いところにある真我を通して、

宇宙の根本と繋がるのです。

 

そこの鎮座されている神様は、依代。

 

感謝を伝えます。

 

いや、それだけでない、

存在の深い部分で、

大きなものと繋がっている場所です。

 

わたしは、天と地を繋ぐパイプです。

 

柏手を打つと、

宇宙と地が自分を通して、パッとつながる。

 

神社という場所には必ず大きな木があります、

というよりも、木のあるところには氣があるというのでお宮を立てているというのが本当です。

 

本当に単なる未開のアニミズムなんだろうか、

「多神教」なのだろうか、

自然や神社の神さまを拝んでいるわけではない、

というのが私の実感です。

 

 

高野山には、「ほとけの生命」が虚空に遍満し、

私たちはその清らかな交わりの中に生かされていると自覚します。

 

般若心経を読誦しているときに、

何か知らないけれども、涙が溢れて止まらなくなることがあります。

 

ほとけと自己は、違うものでなくひとつのものです。

 

何者にも汚されることのない生命は、

存在の深いところから、

あたたかい眼差しを向けています。

 

 

ところどころ、腐敗したり汚れたりはあれど、

本物でなければ、何千年も続くことはないでしょう。

 

著者は、仏教者が永遠に修行を続けなければ救われないことを批判していますが、

本当は、「即身成仏」

此の身このままですでに仏である自覚と、

その仏性を磨き続けていくために永遠に修行を続けていく必要がどちらもあると考えます。

 

キリスト教に於いても、

救いは善行に関わりなく、神から無条件な賜物です。

 

だからといって、一度救われたら、

ゴールか、何もしなくてもいいかと言えば、

やはり、一度出逢った神様に、永遠に出会い続ける喜びと感謝の道があるでしょう。

 

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神道仏教の本当の道でなく、

堕落した形態に対する批判はまあ良いのですが、

開祖のお釈迦さまにまでのぼってディスっているところは、行き過ぎかと思います。

釈迦の教えが結局無霊魂説、唯物論だったというのも、何かとらわれた見方といいましょうか。

 

阿弥陀仏の信心に関する記述に関しても、

そのお坊さんが本当の弥陀の本願を生きていたとは思えない。

弥陀は、はるか彼方の浄土にいるだけでなく、

我々にもっとも近い場所にいて共に歩み続けているといいます。

 

 

もちろん、

人間を騙したり、脅したり支配したりするする形態の宗教に関しては、

厳しく糾弾されるべきですが、

 

尊い本質のところを見ようとしないで、

その堕落した形態だけ見て、

「根本的なところからおかしい」と評するのは行き過ぎでしょう。

 

マッカーサーは、日本の宗教のレベルを見て、幼稚園児レベルだとディスったそうですが、

「あんたこそ分かっていない!」

とわたしは言いたい。

 

靖国神社と神社仏閣をぶっ壊して、ドッグレース場にする計画もあったようですが、言語道断です。

 

あまりにも傲慢です。

 

全てを理性で秩序づけ、侵略ばかりしてきた西洋化した一神教には決してわかり得ない霊性が東洋にはある。

 

ヘーゲルは、歴史哲学の中で、理性の発達した西洋文明をもっとも高く置き、

東洋に行くに従って劣ったものという考察をし、

アフリカ人を奴隷にすることを肯定する記述まである。

 

 

もっとも、

日本に骨を埋め、

日本の伝統宗教に敬意と深い考察や研究を行い、真摯な対話を行う西洋人宣教師もおり、私は彼らのことをとても好きです。

 

というかその次元になると、

何人かということはあまり問題でなくなり、とてもファミリアーに感じるのです。

 

 

 

 

①絶対主義・排他主義

②包括主義

③相対主義

④不可知論

 

①の立場を取るのは、特に一部の日蓮宗系の仏教や、第二バチカン以前のカトリック。

うちだけ正しくて、後はみんな間違っている。

救いの体験がここでしか得られない強烈なものであるゆえに、他の立場がすべてインチキに見えてしまう。

時に狂信的になり、世間と摩擦が生じれば生じるほど、迫害と喜び、信仰を固めていく。

 

②の立場で典型的なのは空海の真言宗でしょう。

彼は、諸宗教を十の段階に考察し、一番上に真言密教の道を置き、共通の普遍的水脈を発見し、すべての宗教が手を取り合う道を模索しています。

イスラム教でも、聞くところによると天照大神もイエスもブッダもアラーのメッセンジャーで、トップにはムハンマドという包括主義的な考え方があるそうな。

「でも結局あんたのところが一番なんでしょう」という感情はあるかもしれません。

 

③は、「それぞれ自分にあったものが一番」「どこでもいいよ」「みんな違ってみんないい」というゆるーい立場。

絶対者がおらず、互いに認め合うので、ここからまず、戦争は起きない。

一方で、カルト的なものに対する無防備な温床にもなり得るとも言えますし、

本当に救いがあるものが相対化されたり。

 

④はそもそも、何も知らないし知り得ないんだから、立ち入らないでおこう、

判断はできないよ、というスタンス。

 

いずれのの立場も、利点と限界の双方があります。

 

私の立ち位置は、おそらく、②包括主義に当たるでしょう。

 

 

 

「折伏」めいた宣教をするより、

諸宗教のもっとも尊いところを尊敬をもって対話しつつ、

それでも、自らの信仰を相対化せず、自らの歩む道の素晴らしさを率直に証する。

 

中世に、イエズス会宣教師が来たときは、

キリシタンたちは、

仏像ぶっ壊し、神社仏閣燃やし、位牌を投げ棄て、

挙げ句の果てに奴隷売買にまで関わったこともありますが、

ほんまに、

「普遍(カトリック)」の名を冠しながら、

なぜそういう、原理主義的で排他的な所業をやってのけたのか。なぜ、誠実に対話し、普遍的な救いについて手を取り合おうとしなかったのか。

 

もう、そんな時代に帰って欲しくない。

 

ちなみに、現在のバチカンは、普遍主義へ舵を切っており、

諸宗教の中に見られる尊いものを何も排斥せず、

尊敬を持って向き合い考察し、対話します。

 

そして、それらの中にも、天の父の直感や、キリストの真理の光を見出して認めております。

 

もうほんとに、

何教何宗関係ない、

人類である限り、すべての人にとってそうだよねと言える、

そういう普遍的な神さまと出会い続けていきたいものです。