歴史上における馬の役割とは | 14歳の趣味の部屋

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こんにちは。edr24です。

 

今回は初の歴史です。

 

テーマは「歴史上における馬の役割」です。

 

4/9には桜花賞、そしてこのブログの配信日の4/16には皐月賞があり、ニュースを見ると競馬のニュースが舞い込んでくるのでこのテーマにしました。

 

友達にも競馬好きの子がいたので。(その子がいなかったら競馬のニュースが流れていてもこの内容にしていなかったと思います。感謝!)

馬の誕生

馬は、5千5百万年前に北米に現れた「ヒラコテリウム」と呼ばれる、体高30cmほどの動物が祖先です。

 

ヒラコテリウムは、前肢に4本、後肢に3本の指を持ち、森林に住んでいました。

 

さらに、5百万年前になると、蹄がひとつで、体高1m以上の「プリオヒップス」が出現。

 

百万年前には、現代馬の先祖に一番近い「エクウス」が現れます。

 

このエクウスが世界中に生息範囲を広げ馬・シマウマ・ロバなどに進化していきました。

 

この頃の馬は、乗馬などではなく狩猟の対象でした。

 

 

 

馬の先祖となるヒラコテリウムが誕生して数千万年のときを経て、馬は日本へとやってきました。

 

日本には、在来種の馬もいたとされていますが、古墳時代に朝鮮半島より外来種の馬が伝来。

 

このとき伝来した馬の血脈は、明治時代のはじめに、競走馬のサラブレッドが輸入されるまで、日本人と共に歴史を歩んでいきます。

古代の人々のかかわり

馬が日本で急増したのは古墳時代頃。

 

古墳時代に馬が急増した理由については、この頃に朝鮮半島からの渡来人が、馬を連れてやってきたからだと考えられます。

 

それが何のためだったのかは伝わっていませんが、馬の渡来は日本人の生活を大きく向上させる重要な事象となりました。

飛鳥~奈良時代

645年に大和朝廷で「天智天皇」が行った改革「大化の改新」以降、公的な通信手段として馬が使用されるようになりました。

 

この改革以前にも火急の知らせを送る早馬は存在しましたが、詔を出して制度化したのは天智天皇がはじめてです。

 

 

663年(天智2年)の「白村江の戦い」で、日本は百済救済のため、唐・新羅連合軍と戦いました。

 

しかし結果は、日本軍の大敗で終わりました。

 

天智天皇は、大国・唐に対抗できる国家にすべく、律令制を整えることを急ぎ、馬の軍事的利用を政策課題としました。

 

そして701年に、ついに「大宝律令」が完成。

 

すでに、大化の改新を行った天智天皇は亡くなり、弟「天武天皇」が天智天皇の遺志を引き継いで、政治を行っていました。

 

法のもとに政治を進める律令国家となった日本は、天皇を中心とした「二官八省」の官僚機構を骨格に据えます。

 

このなかの軍政を司る機関「兵部省」の「馬寮」と言う部署で、馬の飼育や調教を行っていました。

 

そして、馬寮の長官には、伊勢平氏の武士が続いて長官となったことから、馬寮は武士のあこがれの官職のひとつです。

 

身分の低い武士でも、成功をすれば職に就くことができたため、志望者が殺到しました。

平安~鎌倉時代

平安時代以降になると、武士が扱う刀剣にも大きな変化が訪れました。

 

反りのないまっすぐな刀剣「直刀」から、反りのある「湾刀」(太刀)が作られるようになります。

 

この背景には、騎馬戦の登場が挙げられ、乗馬したまま刀剣を振り下ろして敵を薙ぎ払うのに、長くて反りのある刀剣が適していたのです。

 

その他にも、かつての「短甲」や「挂甲」に代わり、「大鎧」と呼ばれる甲冑(鎧兜)が登場。

 

これも乗馬した状態で戦いやすいように改良された鎧です。

 

大鎧は具体的には、肩を守るための「袖」、脇の隙間を守るための「脇楯」、胸部を守るための「鳩尾板」、「栴檀板」、「吹返」などで構成されています。

 

 

 

乗馬による騎馬戦が、戦の主役となったことにより、一騎打ちと言う戦法が生まれます。

 

当時の一騎打ちは、名乗りを上げて戦う一騎打ちが主体。

 

こうした戦の在り方や、武士と馬とのかかわりは「源平合戦」以降徐々に変わっていきます。

 

優れた軍才を持っていた「源義経」は、馬によって戦の常識を変えた人物です。

 

平安時代末期の1184年に起きた、源氏と平氏との戦「一ノ谷の戦い」で、源義経はたった70騎の手勢で平氏を敗走させています。

 

平氏が陣を張っていた場所は、兵庫県神戸市にある一の谷。

 

源義経は、この一ノ谷の裏手にある鉄拐山から、難路と言われた鵯越の断崖絶壁を下り、麓にいる平氏の陣へと急襲を仕掛けました。

 

戦の開始直前、源義経は山に詳しい猟師を配下に加えています。源義経は猟師に「この鵯越を馬は越えられるか」と問いました。

 

猟師は「鹿が越えるのは知っているが、馬が越えたところは見たことがない」と答えます。

 

対して源義経は「鹿が越えられるならば、馬でも問題ないだろう」と言って、この鵯越から下る作戦を決行。

騎乗したまま、源義経は先陣を切って崖を駆け下りました。

 

平氏軍達は、予想もしない方角からの攻撃に大混乱に陥り、我先に敗走したと言います。

戦国時代~江戸時代

前述したように、武士にとっての「馬」は、刀剣や弓など、合戦に欠かせない重要な道具のひとつです。

 

そんな武士にとっての愛馬とは、すなわち自身の社会的地位の高さを見せるための道具でもありました。

 

そこで、馬好きの戦国武将に「織田信長」が挙げられます。

織田信長は、武田家を滅亡させた折、「武田勝頼」の愛馬を進上させるなど、敵方の馬でも丁重に扱い、自身の持ち物としました。

 

織田信長の馬好きを語る上で欠かせないのが、1581年に京都で開催された「京都御馬揃え」です。

 

この京都御馬揃えには、織田家の重臣「丹羽長秀」や「柴田勝家」をはじめ、織田軍を総動員するほど大規模な行事でした。

 

その他にも「正親町天皇」や「近衛前久」など、皇室や公家など錚々たる顔触れが参加しています。

 

京都御馬揃えは、観兵式や軍事パレードの意味合いもかねていました。

織田信長の狙いとしては、天下布武のために周辺大名を牽制し、自身の力を誇示するために行ったと考えられます。

 

この京都御馬揃えにより、織田信長は、織田家の天下掌握を全国に知らしめることに成功しました。

 

 

 

江戸時代には、馬の飼い方や調教方法を書いた大坪流の馬術書や、解馬新書などの、馬に関するいろいろな古文書が刊行されたり、沢山の民話・民謡などが生まれました。

 

それらは今も日本在来馬に受け継がれています。

明治時代

日清・日露の両戦争で初めて外国の改良種に対面した日本は、国内産馬が体格・資質の両面で改良種にはるかに劣っていることを痛感。
 
そこで外国から改良種を導入し、国是として軍馬生産に取り組み(馬政計画1906年)、敗戦までに目を見張るような成果を挙げました。
 
1935年までの30カ年を区切って実施された第一次馬政計画では、
サラブレッド、アラブ、アングロ・アラブ、アングロ・ノルマン、トロッター、ハックニー、ペルシュロン
など、当時世界に名を馳せていた改良種の種雄馬を輸入し、国内産の雌馬との交配による産馬改良が精力的に実行されました。
 
 
 
今回は以上です。
次回も楽しみにしていてください。

今回の豆知識

ホホジロザメは、バンドウイルカに体当たりされて死ぬことがあり、イルカがサメを殺すことは珍しくない。