天井が「ガラス張り」という事は、こんなこともできちゃう。雨音を聞きながら、落ちてくる

雨粒を見続けていつの間にか寝入ってしまう、というのもええもんでした。

そうそう、雨の日は、忙しくて読めなかった大量の古新聞を持って、良く森で読んで

おりました。コーヒー飲みながら、これもなかなかいい時間でしたね。

ある冬の寒い日、起きたら40度近い熱があった。外は晴れていたが、もの凄い北風で、

まさに「寒風吹きすさぶ」状態。典型的な太平洋側の冬型気候。私は高熱を押して、

車で土手に向かった。そして、シェードを全部開け、車の屋根を完全ガラス張りにした。

すると・・・・車内部はまさに温室。ビュービューと凄まじい風の音が聞こえ、時折車が揺れる

くらいの状態だったのだが車内はぽかぽか。まるで暖かい春の縁側のよう。その日が休み

だったことを良いことに、ずっと車の中で毛布にくるまってうつらうつらしておりました。

まるで「胎内」か「繭の中」にでもいるような極楽浄土でございました。日暮れとともに

家に帰りましたが、その時には熱も引いておりました。

 

その上、この車は、ガラス屋根自体も完全開放することが出来る。たとえば、こんな状態で、

車内で寝袋にくるまりながら月や星を見ていられる。ガラス屋根だと、どうしても夜間は露が

ついて見にくくなるしね。

だから、気候のいい桜の花の季節や、紅葉の季節は、ガラス屋根まで開け放って、

リクライニングして、思う存分楽しんだ。屋根全開は匂いも楽しめるから良いよね。

新緑の時は特にね。

 

また、後部座席が完全に折りたたむと、180センチ以上の段差のない広大な「フルフラット

スペース」が出現する。つまり、寝袋どころか、ちゃんと布団が敷けるわけ。いったい、

この車で車中泊を何度したことか。

というわけで、この車とは、本当にいろんな所に行きました。

もちろん、星がらみが多かったけどね。

 昔、ある建築家が日本家屋の「縁側」について書いていた。

「縁側」というのは、人工物である「家」と、外界である「自然界」との「境界」に当たるもの

なのだそうです。そこに身を置くことで、人間は、両者からメリットを享受できる、という話

だった気がする。

僕は、これを読んだ時、ものすごく腑に落ちた。小学生の時から、縁側で、ボーっとしながら

庭の虫の音や、雨音とか聞くのがすごく好きだったから。

人間は、文明を築いてきた事によって、自然から距離を置くようになってしまった。

もちろん、文明は人間に計り知れない恩恵を与えて来たけど、自然から離れる、という事は

「根無し草」の感覚を人間に生じさせてしまうのではないのか?なんといっても人類の生まれ

てきたところは「母なる自然」だからね。

 

だからこそ、「縁側」という境界線は、自分が自然とつながっている感覚を、安全な領域から

思いださせてくれる貴重なところなんだと思う。

 

なぜこんな話を書いたか、というと、僕は自分の車を「走る縁側」だと思っていたからだ。

いつも、身近に自然を感じさせてくれる移動空間、「境界線」そのもの。

 

とか、いろいろ思っていたら、修理屋さんから電話があった。

 

「もう、メーカーにも部品ないそうです。さすがに、もう、この車は諦めるしかありません。」

 

本当に大切なものは、いつも突然無くなってしまう。まあ、この車との思い出は、きっと例の

「走馬燈」にも、いっぱい出てきそうだね。