綱吉屋敷、養生所跡の小石川植物園遺跡見学会見てきました
5代将軍徳川綱吉が将軍になる前に持っていた屋敷や、有名な小石川養生所があった、東大小石川植物園の遺跡見学会を見てきました。
今回の発掘は植物園南西側の道路を拡幅して歩道を造る工事に伴うものですが、地元住民からは植物園の緑地、敷地を減らして行う不要な工事、との反対運動もありました。
私もここは何度も歩いていますが、交通量は少なく、確かに歩道がそんなに必要とも思えないです。
歩道を造って欲しい、との要望もあるようですが。
ちょっと話はそれますが、こういう敷地境界に厳重な塀が必要なんでしょうかねえ。
歩道的なものを造るとして、敷地際の林間に遊歩道的なものを整備して、敷地と連続性のあるものにできないのでしょうか?
夜間の管理や有料施設でもあるので、なんらかの境界は必要と思いますが。
現在の植物園の敷地には、江戸時代の初めには近くにある簸川神社や白山神社がありましたが、1650年頃、当時館林藩主だった徳川綱吉の下屋敷ができました。
通称白山御殿と呼ばれるものです。
綱吉が将軍になってからは幕府の御薬園や赤ひげで有名な小石川養生所などができ、明治維新後は東大の植物園になりました。
発掘はすでに境界の3分の2ほどで終わっています。
今回の目玉はその最新の発掘現場で見つかった石組みと柱穴です。
江戸期と思われる面に、敷地境界にほぼ沿った石組みと、その外側に並ぶ柱穴が出て来たのです。
現在の植物園の境界からは少し内側になり、ラインも少しずれていて、境界に変遷があったことがうかがえます。
江戸期の絵図では白山御殿の周囲が石垣で囲まれていたように描かれています。
しかしこの石組みは大名屋敷、しかも将軍家一族のものにしてはあまりに貧弱で、そうした江戸期のものか疑問です。
今後さらに発掘してどのような遺構なのか調査するそうです。
遺物は縄文時代から現代まで様々なものが見つかっており、特に縄文土器の破片は多量に見つかっています。
ただいずれも元々の地層にあったものではないようで、どこからか流れてきたか、工事の際の土の移動で上に出てきたもののようです。
この植物園南西境界は小石川の谷側で、古くは低湿地だったため縄文人などは住んでいない、と考えられていたようですが、掘ってみると立川ローム層などがしっかりあり、台地ばかりでなく、このあたりにもあるいは縄文人の生活の場があったかもしれないそうです。
ただそれを確認するにはさらに1メートルほど全面的に掘らねばならず、工事の目的からして無理なようです。
縄文時代のものとしては、石棒も見つかっています。
小さいものですが、先端に細かい模様が入った珍しいものです。
文京区内の出土例は珍しいそうですが、いかんせん元の地層がわかりません。
惜しいですね。
今回の発掘は植物園南西側の道路を拡幅して歩道を造る工事に伴うものですが、地元住民からは植物園の緑地、敷地を減らして行う不要な工事、との反対運動もありました。
私もここは何度も歩いていますが、交通量は少なく、確かに歩道がそんなに必要とも思えないです。
歩道を造って欲しい、との要望もあるようですが。
ちょっと話はそれますが、こういう敷地境界に厳重な塀が必要なんでしょうかねえ。
歩道的なものを造るとして、敷地際の林間に遊歩道的なものを整備して、敷地と連続性のあるものにできないのでしょうか?
夜間の管理や有料施設でもあるので、なんらかの境界は必要と思いますが。
現在の植物園の敷地には、江戸時代の初めには近くにある簸川神社や白山神社がありましたが、1650年頃、当時館林藩主だった徳川綱吉の下屋敷ができました。
通称白山御殿と呼ばれるものです。
綱吉が将軍になってからは幕府の御薬園や赤ひげで有名な小石川養生所などができ、明治維新後は東大の植物園になりました。
発掘はすでに境界の3分の2ほどで終わっています。
今回の目玉はその最新の発掘現場で見つかった石組みと柱穴です。
江戸期と思われる面に、敷地境界にほぼ沿った石組みと、その外側に並ぶ柱穴が出て来たのです。
現在の植物園の境界からは少し内側になり、ラインも少しずれていて、境界に変遷があったことがうかがえます。
江戸期の絵図では白山御殿の周囲が石垣で囲まれていたように描かれています。
しかしこの石組みは大名屋敷、しかも将軍家一族のものにしてはあまりに貧弱で、そうした江戸期のものか疑問です。
今後さらに発掘してどのような遺構なのか調査するそうです。
遺物は縄文時代から現代まで様々なものが見つかっており、特に縄文土器の破片は多量に見つかっています。
ただいずれも元々の地層にあったものではないようで、どこからか流れてきたか、工事の際の土の移動で上に出てきたもののようです。
この植物園南西境界は小石川の谷側で、古くは低湿地だったため縄文人などは住んでいない、と考えられていたようですが、掘ってみると立川ローム層などがしっかりあり、台地ばかりでなく、このあたりにもあるいは縄文人の生活の場があったかもしれないそうです。
ただそれを確認するにはさらに1メートルほど全面的に掘らねばならず、工事の目的からして無理なようです。
縄文時代のものとしては、石棒も見つかっています。
小さいものですが、先端に細かい模様が入った珍しいものです。
文京区内の出土例は珍しいそうですが、いかんせん元の地層がわかりません。
惜しいですね。