江戸の鉄砲州開発、最先端の遺跡見てきました
ツイッター、FBでお知らせした中央区の湊2丁目遺跡の見学会、行ってきました。
現在マンション工事中で、その際に見つかったものです。
江戸初期から明治にかけての複合遺跡です。
なんと言っても期待して行ったのは、江戸初期の鉄砲州埋め立ての最先端、文字通り先っちょの護岸石垣が見つかったとのことだったので、それを見ようと期待していました。
半分喜び、半分がっかりでしたね。
実は石垣はすでにすべて発掘され、崩されてしまったあとだったのです。
当日見られたのはほんの一部の再現石垣と写真だけでした。
うーっむ。
まったく保存と言うことにはなっていませんでした。
鉄砲州というのは江戸時代の埋め立て地ですが、その形が鉄砲のように見えたのでその名がついた、との説があります。
この写真でどうでしょう。
右下の赤い四角が今回の発掘地です。
そこから左に続く細長い土地、
左が銃口、右が銃床に見えませんか?
中ほどの白い四角い土地はあとで埋め立てられた場所なので、これがないことを想像するとまさに火縄銃の形ですね。
なんでこんな細長い土地を埋め立てたかというと、実はこの北の水路が八丁堀です。
八丁堀は今は埋め立てられて地名でしか残っていませんが、もともとは文字通り水路の名です。
この水路の左奥には京橋があり、江戸湊の中心地でした。
さらには江戸城の堀へと続いており、八丁堀はこの江戸の核心部に敵の船が近づくのを防ぎ、大砲などが届かないようにわざと狭い水路を作ったのだという説があります。
江戸末期の地図ではこうなります。
真ん中左右の水路が八丁堀で、上の写真の左右の水路と一緒です。
ずいぶん埋め立てが進んで、様相が一変していますね。
江戸時代から江戸は埋め立ての街だったのです。
その江戸初期の最初の埋め立て地の護岸が今回見つかったのです。
石垣には刻印がしてあり、伊達家のものといいますが、必ずしも伊達家がここの工事をしたわけではなさそうです。
というのはこの石垣はどうも江戸城工事の余り石を使ったらしく、積み方も乱雑です。
この部分は、鉄砲の銃身方向にその後どんどん埋め立てが進むわけですが、それを見込んで、どうせ埋め立ててしまう場所だからと、通常使う胴木(不等沈下しないように下に置く木)もないそうです。
発掘現場の全体風景です。
石垣は一番奥に左右にあったそうです。
手前で現在掘っているのは江戸後期の層で、ここは埋め立て地ですから江戸初期まで掘り進み、海砂が出て来たらおしまいです。
かつての海底ですね。
右の写真で一所懸命掘っているのは江戸時代のトイレ=便槽です。庶民のトイレは下にこうした瓶を置き、肥として農民に売っていました。
この写真の真ん中に小さく見える茶色いものは胞衣を入れた皿です。
胞衣とは出産時の胎盤ですね。
庶民はこのような土器に胞衣を挟んで玄関の下に埋めました。
多くの人に踏んでもらって元気の育つためのまじないです。
胞衣壺は知っていましたが、それは武家やお金持ちのこと。
庶民は安価な皿に挟んで埋めたようです。
こんなのも置いてありました。
文化財としての価値はないようなので持ち帰り自由でした。
黒いのが瓦
赤いのが火事で焼けた瓦だそうです。
さらにこんなものも。
手前の巨木はなぜか水路に投棄されたとみられる柱で、皮が残っているので年輪年代法でいつ切られた木か調べるそうです。
奥の大きな陶器の筒は明治期の井戸側だそうで、りっぱなものなので持って帰る人がいるならくれるそうです。
買ったら結構なお金しますよね。
文化財としての価値はあまりないようで、このままだといずれ廃棄されるようです。
あなたももらいに行きませんか?
現在マンション工事中で、その際に見つかったものです。
江戸初期から明治にかけての複合遺跡です。
なんと言っても期待して行ったのは、江戸初期の鉄砲州埋め立ての最先端、文字通り先っちょの護岸石垣が見つかったとのことだったので、それを見ようと期待していました。
半分喜び、半分がっかりでしたね。
実は石垣はすでにすべて発掘され、崩されてしまったあとだったのです。
当日見られたのはほんの一部の再現石垣と写真だけでした。
うーっむ。
まったく保存と言うことにはなっていませんでした。
鉄砲州というのは江戸時代の埋め立て地ですが、その形が鉄砲のように見えたのでその名がついた、との説があります。
この写真でどうでしょう。
右下の赤い四角が今回の発掘地です。
そこから左に続く細長い土地、
左が銃口、右が銃床に見えませんか?
中ほどの白い四角い土地はあとで埋め立てられた場所なので、これがないことを想像するとまさに火縄銃の形ですね。
なんでこんな細長い土地を埋め立てたかというと、実はこの北の水路が八丁堀です。
八丁堀は今は埋め立てられて地名でしか残っていませんが、もともとは文字通り水路の名です。
この水路の左奥には京橋があり、江戸湊の中心地でした。
さらには江戸城の堀へと続いており、八丁堀はこの江戸の核心部に敵の船が近づくのを防ぎ、大砲などが届かないようにわざと狭い水路を作ったのだという説があります。
江戸末期の地図ではこうなります。
真ん中左右の水路が八丁堀で、上の写真の左右の水路と一緒です。
ずいぶん埋め立てが進んで、様相が一変していますね。
江戸時代から江戸は埋め立ての街だったのです。
その江戸初期の最初の埋め立て地の護岸が今回見つかったのです。
石垣には刻印がしてあり、伊達家のものといいますが、必ずしも伊達家がここの工事をしたわけではなさそうです。
というのはこの石垣はどうも江戸城工事の余り石を使ったらしく、積み方も乱雑です。
この部分は、鉄砲の銃身方向にその後どんどん埋め立てが進むわけですが、それを見込んで、どうせ埋め立ててしまう場所だからと、通常使う胴木(不等沈下しないように下に置く木)もないそうです。
発掘現場の全体風景です。
石垣は一番奥に左右にあったそうです。
手前で現在掘っているのは江戸後期の層で、ここは埋め立て地ですから江戸初期まで掘り進み、海砂が出て来たらおしまいです。
かつての海底ですね。
右の写真で一所懸命掘っているのは江戸時代のトイレ=便槽です。庶民のトイレは下にこうした瓶を置き、肥として農民に売っていました。
この写真の真ん中に小さく見える茶色いものは胞衣を入れた皿です。
胞衣とは出産時の胎盤ですね。
庶民はこのような土器に胞衣を挟んで玄関の下に埋めました。
多くの人に踏んでもらって元気の育つためのまじないです。
胞衣壺は知っていましたが、それは武家やお金持ちのこと。
庶民は安価な皿に挟んで埋めたようです。
こんなのも置いてありました。
文化財としての価値はないようなので持ち帰り自由でした。
黒いのが瓦
赤いのが火事で焼けた瓦だそうです。
さらにこんなものも。
手前の巨木はなぜか水路に投棄されたとみられる柱で、皮が残っているので年輪年代法でいつ切られた木か調べるそうです。
奥の大きな陶器の筒は明治期の井戸側だそうで、りっぱなものなので持って帰る人がいるならくれるそうです。
買ったら結構なお金しますよね。
文化財としての価値はあまりないようで、このままだといずれ廃棄されるようです。
あなたももらいに行きませんか?