護国寺の陸軍境界石 | 黒田 涼と江戸を歩く

護国寺の陸軍境界石

「大軍都・東京を歩く」発刊記念、
23区内の陸軍境界石シリーズ第4弾です。

護国寺にも陸軍境界石があります。
(境界石とはなんぞやは→こちら

東京メトロ護国寺駅を降りて、護国寺門前に出ます。
門前の不忍通りを西へ、門を見て左に進みます。

日大豊山高校の校舎を過ぎ、細い路地をやり過ごすと一部壁面が石造りのビルがあります。
そのビルと隣の敷地の歩道際を見て下さい。
またまたニョキッと出ています。

近づいて見ると「陸軍省」と彫られているのが読めます。
さらにこの下に文字があるのかはわかりません。

ここにはどんな軍用地があったのでしょう?
実は陸軍軍人専用の墓地がありました。

護国寺は徳川綱吉が作った寺で、江戸時代は徳川将軍家の祈願寺として、寛永寺や増上寺に次ぐ権威ある大きな寺でした。

これが明治維新後は災いします。
徳川家と親しい寺ということで、境内がどんどん政府に奪われてしまうのです。

まず東半分は皇室用地となり、皇族専用の墓地とされてしまいました。
これが今も続く豊島岡墓地です。
天皇、皇后以外の皇族は、今はここに葬られます。

さらに西側の土地も取られます。
1873年にここに陸軍埋葬地が造られるのです。
当時陸軍は徴兵制を始めたばかり、ところがまだこのころは医療や衛生状態が十分でなく、兵たちはどんどん病気で死にます。
そこで亡くなった兵たちを葬る必要が生まれ、全国各地に軍専用の墓地ができるのです。
軍人を称えたとか、戦死者を特別扱いしたとか、そういうものではないのですね。
ですから墓石を見ると、戦死と書かれたものもなくはないですが、ほとんどが病死です。

その敷地がかつてはこの標石のあたりまであったのです。
今はビルやマンションが建ち、また先ほどの路地の奥には小学校もあります。
墓地はどうなったのでしょう?

護国寺の山門に戻って奥の墓地に入ると、一番奥にそこだけ囲われた「陸軍音羽埋葬地」が今もありますが、墓石は40ほどしかありません。
かつては2400柱ほどが葬られていたといいますが、無縁のものはすべて改葬されたといいます。

敗戦後も墓地は残り、所有は陸軍から護国寺に返還されました。
その後近くにあった小学校が、護国寺前の首都高速工事で移転を余儀なくされた際、護国寺がこの土地を売り、区が買い、小学校を建てたのです。
つまり首都高工事のために軍人たちの墓地がこのように何十分の一にも縮小されたわけです。
なにやら考え込まざるを得ません。


No.5 護国寺の陸軍境界石
所在地 文京区大塚5-40-18
表記 「陸軍省」(以下なし?)