橋がないのに幸橋、土橋、新橋 | 黒田 涼と江戸を歩く

橋がないのに幸橋、土橋、新橋

石垣のある日比谷セントラルビルからさらに新橋方向に進みましょう。

やがて新橋第1ホテルの高いビルがあります。
ここも外堀の上に建っています。
道の突き当たりにはJRのガードがあります。
名前を見てみましょう。
「幸橋ガード」とあります。
はて、橋のようなものはありませんが?

実は江戸時代にはこの場所で外堀は北に折れ曲がり、外堀には幸橋という橋が架かっていました。
外とをつなぐ城門は幸橋門と呼ばれ、大きな枡形門がありました。
外堀は明治まで残っており、明治期にできたJRのガードは、その名前を取っているのです。

幸橋ガードをくぐってコリドー街との角に「新幸橋」との碑があります。
こちらは北に折れ曲がった外堀の方に明治以降かけられた橋の記念碑です。$黒田 涼と「江戸城を歩く」-新幸橋

近くの首都高に土橋入口という昇り口があり、さらに交差点にも「土橋」という名がついています。
ここにも橋がありませんが・・・

そうです。やはり江戸時代には橋があったのです。
ここは外堀の外でしたので、土でほとんど地続きになった橋がありました。
だから土橋です。
さらに先に行くと銀座の中央通りに出ますが、ここに架かっていた橋が新橋で、「新橋」の地名の起こりです。
先の土橋よりあとにできたので「新橋」になりました。

ここにはほんの一時期だけ枡形門がありました。
芝口門という門です。

江戸城が完成してから遙かあとの1711年(正徳3年)に作られました。
なぜそんなにあとに作られたかというと、当時幕政に大きな発言力があった新井白石の建議によるものだそうです。
当時数少ない付き合いのあった外国である朝鮮の通信使が江戸城を訪れる際通ったのが今の中央通り、当時の東海道でした。
外国使節が通る江戸城の入口には、もっと立派な門を作って日本の威厳を見せるべきだ、というのが理由でした。
しゃちほこばったことが好きな新井白石らしいですね。$黒田 涼と「江戸城を歩く」-芝口門跡

しかし江戸城の守りに欠かせないわけでもなく、内も外も町屋だったこの場所では普段の生活には邪魔なだけ。
しばらくして火事で焼け、すぐに取り壊されてしまいました。
形式的なことは長続きしない、って教訓ですね。

首都高の北側を走る御門通り沿いに中央通りから少し行くと、記念碑があります。