百鬼夜狂 狂歌百物語集 その3
2026.2
(初版の前書き)
序 (1785年の初版の序文)
怪しいものを見ても、それを怪しいと思わなければ、
「左伝(さでん:春秋左伝のこと。中国古代の歴史書で或る「春秋」に、左丘明 という人が注釈を施したとされる書)」の化け物話も、うそになる。
逆に、怪しいなものを見て「あやしい」と感じるならば、
六部(巡礼僧)の語る地獄の話も、きっと本当なのだろう。
(河鍋暁斎画集より)
今の学者の言うことや、坊主の不思議好きな説(仏教に限らず、宗教には、超自然現象や奇蹟などを説くことが多いことを、指している。)よりも、
「怪しいものをあやしいと思わない(不可思議な事を信じない)」心の方が、よほど不思議である。
かえって、あやしくないものを「あやしい」と思うような始末だ。
さて、月日の光、風の息吹、雲の顔つき(様子)、雨の足(=降り方)、海や山の姿などをよく見れば、
天地の間そのものが、まさにひとつの「化け物屋敷」ではないか。
昔から、「真っ暗な夜に百のあやしい話を語ると、必ずそのしるし(=怪異の現象)が現れる」と言われている。
その古い言い伝えにもとづいて、近ごろ戯れ好きの狂歌仲間たちは、鬼神をも打ち負かす勢いの、少し狂ったような酒の勢いを後ろ盾にして、
富ヶ岡(=富岡)から北の深川の東、青い灯火が揺れる油堀のほとりにある、鬼一口(おにひとくち)とか椀倉(ワングラ)とかいう地名の某の別荘に集まった。
そうして百物語を狂歌に変えたが、その数は百にも及なだ。
もとより、箱根より東には「野暮」と「化け物」はいない。
(=このあたりでは、田舎くささも怪異もない、という洒落)けれども、人は「ないものは食べたくなり、怖いものは見たくなる」ものだ。
そこで、奈良の桜の木にちりばめるように、子供だましの「がごぜ(元興寺の鬼)」を織りまぜて作った。
これはそのような読むもの(=書き物)である。
恐いだろうか、はたまた 可笑しいであろうか?
天明五の年(1785年)冬の日
四方山人(大田南畝、蜀山人) 書き記す

