江戸塵拾巻之五 その2
2025.11
7.旭耳掻(みみかき)
東叡山(とうえいざん)池の端で売っている。煤竹(すすだけ)の耳かきであって、幅は一分(約3mm)ばかりである。そのせまい所に、古歌を彫ってある。或いは二首三首彫りこんである。こまかな細工で、世に弘まった。竹細工職人の佐七と言う者が、宝暦(1751~1764年)のはじめより、作り始めた。
8.元日の化け物
浜町(中央区日本橋浜町)の新庄家の屋敷にて、毎年正月元日未明に、このようなことがある。
表門を開けると、その身長が七尺計りの山伏が、兜巾(ときん:やまぶしのかぶるずきん)、篠掛(すずかけ:山伏の法衣)、金剛杖を持ち笈(おい)を背負って、玄関の前に来るのかの様であるが、姿は見えなくなる。
この事は、今も変わらないが、毎年出てくるわけではない。
その家中に凶事のある年は、大変に悦こんでいる顔色であって、吉事ある年は怒った顔色で出て来る。
世に様々な化物は多いが、このように確かな化物は、この話の他には聞いたことがない。
9.きつねのよめ入 狐の嫁入り
宝暦三年(1753)秋八月の末、八丁堀の本多家の屋敷で、狐の嫁入りがあった。
近所の屋敷では、誰言うともなく、今夜、本多家の家中へ婚礼の有るよし、との風説があった。
日暮よりも諸道具をもち運ぶ事がおびただしかった。上下の人が幾人と言う事なく、行き交い行き交い、賑ぎわった。その夜、九ッ前と思う頃、提灯が数十ばかりに鋲打の女乗物(注;高級な駕籠)の前後に数十人が守護して、いかにも静かに本多家の門に入った。隣家より見る所、その格式は五六千石の婚礼のようであった。
本多家中よりこのような婚礼を取結ぶのは誰であろうかと怪しんだ。
しかし、後で間けば、きつねの嫁入りであったそうである。
この事は、本多家の屋敷にては、誰も知らなかったそうである。ふしぎの事であった。
10.猫が狐を産む
目黒の大崎という所に、徳濃寺という禅宗の寺がある。そこに数十年を経た老猫(ぶち猫)がいて、いつも山へ遊びに行っていた。
明和元年(1764年)の春、その猫が子を産んだが、狐と違って毛の色は猫のように白黒のまだらであった。しかし姿形は猫ではなく狐であった。まことに珍しいことであった。
「この猫は常に山へ入って遊んでおり、そこで狐と交わったものに違いあるまい」と、人々は語り合った。
11.猫老女
本所割下水に住む諏訪源太夫の母・きた(当年七十歳)は、気性が烈しく、何よりも猫を深く愛して数十匹を飼っていた。
その猫が死ぬと、死骸を長持に納め、決して捨てずに置いていた。毎月、亡くなった猫の命日になると、肴を調えて供え、その長持に入れておく。翌日取り出して見ると、供え物はことごとく食べ尽くされていた。
人々は「本所の猫婆(ねこばば)」と呼び、回向院前から釣り堀に至るまで評判であった。
ところが宝暦十二年の八月、大嵐の夜に、その老女は飼っていた猫たちとともに、どこへともなく姿を消した。家の者が不思議に思って長持を開けてみると、中には猫の死骸が一つもなかった。いかなることか、誰も知る者はいない。
12.五本足の犬
宝暦十年(1760年)の秋、小川町の火消屋敷で飼っていた犬が子を産んだ。
初めのうちは人々も気づかなかったが、一月ほど過ぎて見てみると、その子犬の一匹に前足が三本あった。これはまことに珍しいもので、人々は「両国へ見世物に出してはどうか」と話し合った。
しかしそう言い合っているうちに、誰かに盗まれ、行方知れずとなった。