江戸塵拾巻之五    その1

      2025.11

1.鶯笛  鳥笛の始まり  
      
東叡山(上野の寛永寺)の麓の根岸の里に、松川伊助と言う者がいた。彼はここの鶯の音を聞いて、はじめて鶯笛を作った。
その鶯笛は、子飼いのうぐいすの手本となる声ともなった。
(人が飼育したウグイスの子は、親の鳴き声を手本とは出来ないので、鶯笛で鳴き声の手本としたのであろうか?)
これから、小児のおもちゃとなった。
元禄の始め、御門主様が、「関東の鶯の声はだみている音がある」と言って、上方より鶯を数多く取寄せて、ここに放った。
よって、ここの鶯の声はだみていないそうである。
松川伊助は、ここのうぐいすの鳴き声に似せた笛を作った。だみているとは、なまっているという事である。
西行の歌に、
うぐひすは 田舎の谷の 巣なれども 
     だみたる音をば 鳴ぬなりけり

原注:この説は間違っている。
俳諧犬子集
「今日やはや 鶯笛も 子(ね)の日かな 正直(人名:まさなお)」 この集は、寛永十年(1633年) 松江重頼の撰である。
鶯笛と言うものが、古くからあることを、考慮すべきである。ただし、この鶯笛という名は、昔からあったが、今のような作りではない。
今ある鶯笛の製作は、この伊助が始めたのであろうか?



2.掃部沓(カモンクツ か?)

井伊掃部頭(いい かもんのかみ)屋敷の中間(ちゅうげん)がこれを作った。
その起こりは、栗原重蔵という武士が、工夫して、馬の沓(くつ:馬蹄の事)を作る事を得た。この沓を馬の足に打って、乗馬すれば、どんなに乱れた薮や茂みの中でも、馬の足が痛む事がない。
それから、世に弘まって、下々の者が作る仕事となった。



3.朽木草鞋(くつきぞうり)

朽木土佐守(くつきとさのかみ)屋敷の中間(ちゅうげん)作兵衛と言う者が作り始めた。
かもん沓(くつ)と同じく、岩場や石、茨の中を歩いても、その難なく、長くあるいたり、旅行等に行っても、くたびれる事なく、足の痛むこともない。
歩くことが困難なる者も、「千里薬」を用いなくても、このわらじをはいて行けば、足の軽いことは、不思議なことである。
何時のときに、作り始められたかは、わからない。

訳者注:「千里薬」という薬は、今まで見たことがありません。しかし、名前からして、長く歩いてもくたびれない、と言う効能の薬であろう。



4.小豆老女  (小豆ばばあ)

元飯田町もちの木坂の下間部(しもまべ)伊左衛門と言う者の家に、こんな事があった。
夜更けにおよんで、玄関前にて小豆を洗う音が、常に聞こえた。
人音がすると、その音はやんだ。
その音がしたと思われる所に行って見ても、特に変わったことは、無かった。
その音によって、小豆老女(アズキババア)と名づけられた。
(このようなことは、入谷田んぼにも、昔はあったそうである。加藤出雲守殿の下屋敷前の小橋を小豆橋と言う)

 

5.雨夜の笛

木挽町五丁目松平家の屋敷にあり。雨が降り物静かな夜にはどこからともなく、笛の音が聞こえて来た。
やしきの内にて聞けば、外から音がするようである。
しかし、屋敷の外から聞けば、屋敷内から聞こえる様であった。



6.伽藍石(がらんいし)

御医師の田村玄雄の家に有る。色は黒くて、大きさは、茶碗くらいであった。
この石を用いれば、どの様な鉄銅盤石も砕くそうである。卵を打つようにバラバラに粉のようになったそうだ。
その出所を尋ねると、こういうことである。   
唐にて伽藍鳥と言う鳥がいる。日本の鴻(こうのとり)のように、大寺堂塔の屋根へ巣をつくる。
雛鳥は、餌を求めると、親鳥は巣より餌を求めて出て行く。その出たすきに、巣の上に水晶の板を以って、蓋として覆う。親鳥が帰って来て、その水晶の蓋を嘴(くちばし)を以って破ろうとするが、破れない。
親鳥は、悲しい声を出して飛び去っていく。二三日過ぎて親鳥は、一つの石をくわえて帰ってくる。
その石を水晶の上に落とすと、水晶はみじんに砕け散る。
そうして、エサを与えて雛鳥を青てて、飛び去って行く。
この石を伽藍石と言う。大唐(中国)にすら希少な石である。ましてや我国においては、さらに希少で、同じ物がない名石である。