親は、関西を中心に転勤族で、、、、入学式の翌日には、転校なんてこともありました。

中学校までには、数えきれないくらい転校し、全部の学校の名前も、今となっては、思い出せないほどです。

 

放送の世界というか、

最初は、映画撮影の現場も近く、もぐりこんだりして、映画等の効果音など、音作り興味を持ち、中波ラジオをよく聴いていた小学生でした。

 

紙芝居や、ビー玉にめんこ、だんだん日本も豊かになってきて、近くの下級生が、学研のトランシーバーを持って遊んでいた時代です。

 

鉄道にも興味があり、国鉄の駅近くにある踏切の番小屋にも、毎日といっていいほど、遊びに行っていました。

 

時代は、テレビジョン放送が普及し始めたころ、

映画撮影の現場で、年配者と若い人が大喧嘩というか、言い争いに出くわすことがありました。

任侠映画に出てくるような(関西地域特有な)言葉で、、、、、

圧倒されただけの記憶しかありませんが、後から考えると、新しいものとか、古いものとかを発祥とする事柄だったように想えます。

 

しばらくたって、音作りや録音を担当していた年配の方が、

「映画は、無くならないが、もうすぐ、テレビの時代がやってくる。それに備えて、勉強しろ」と若い人達にいっておりました。(テレビの放送時間も増えてきました。)

そんな中、若い人たちが甲子園球場に「阪神・巨人戦」を見に行くというので、連れて行ってもらいました。

 

球場の入り口前の広場に、テレビジョン中継車と、そこから、同軸ケーブルを伸ばした先にパラボラアンテンが、簡単な囲いの中にポツンと置かれていました。(実際には、「傘を広げて、横向きに設置されたものは何なのかなぁ」と思っていました。)

 

中継車から、人が出てきて、調整をしていました。

じっと見ていたら、声をかけてくれて、中継車の中も見せてもらい、

モノ創りをする職人や、さかなや野菜などを売り買いする商売人と違って

当時としては、テレビジョンの中継作業は、未来の仕事のように見えました。

 

別れ際に、「電波の仕事には、免許を取らないとできないよ」といわれ、

 

結果

 

無線従事者暦 2024年で50年になります。