本日、2023年10月27日
ガザ地区で多くの方々が亡くなられていることは本当に悲しい出来事です。亡くなられた方々へご冥福をお祈りします。
さて、本日早朝にイスラエル国防軍(IDF)がガザ地区に入ったと情報がありました。
今までは、空中戦というか、空爆だけだったのですが、いよいよ地上戦です。
その情報のSNSがこちら
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https://x.com/bs_fbo/status/1717697729021776218?s=20
https://x.com/bs_fbo/status/1717679520420090276?s=20
https://x.com/bs_fbo/status/1717714348242800851?s=20
第一報は、今朝7:52に入って来ました。
何故そこまでして、イスラエルはガザ地区を攻撃したいのでしょうか。
ここで歴史を振り返りましょう。
まず、何でイスラエルという国があるのでしょうか?
大昔のイスラエル王国は、聖書に出てきます。
ここでは聖書時代のイスラエルについては、語らずに現在のイスラエルの国ができた経緯から話をしていきたいと思います。
多くの方々は知っていると思いますが、ユダヤ人は中世の時代では国を持っていませんでした。
それだけなら良いのですが、19世紀に入ると、キリスト教世界において、ユダヤ教から改宗しなかった人々が、各地で迫害されていくことになります。
特に、ロシアにおける1881年以来のユダヤ人迫害(ポグロム)と、フランスのドレフュス事件にみられる反ユダヤ主義の世論が高まってきます。
そんな中、ユダヤ人の中に、故郷イスラエルに帰り、祖国を再建しようという思想が芽生えてきました。それが「シオニズム理念」と言われるものです。
シオニズム運動が起こり、1897年にスイスのバーゼルで「第一回シオニスト会議」が始まります。
目標は「パレスチナにユダヤ人のための、国際法によって守られたふるさとを作る」とでした。
目標を現実化するべく、「世界シオニスト機構」が創設され、「バーゼル綱領」が作られました。
しかし正統派ユダヤ人は、この「バーゼル網領」はユダヤ教の「メシア待望思想」に対立するため、ドイツの「ラビ会議執行委員会」は批判していました。
当時のパレスチナは、まだオスマン帝国の植民地でした。
パレスチナへの組織的なユダヤ人入植については、当時のオスマン帝国は許可しないこともあり、なかなか目標がの現実化はできませんでした。
1901年、「第五回シオニスト会議」での「ユダヤ民族基金創設」が決まります。
ナサニエル・ロスチャイルド(初代マイヤー・アムシェルの三男の三男)からの資金援助により、1903年のアングロ-パレスチナ銀行創設に成功します。
それによってイスラエル建国のために公金を提供をするという戦略に乗り出しました。
「世界シオニスト機構」は粘り強い小規模移住によるホームランド形成をしながら、「ユダヤ民族基金」で土地を購入していきます。
第一次世界大戦が始まり、オスマン帝国は敗北し、イギリス軍がパレスチナなど中東に進出します。
イギリスは1918年にパレスチナを占領し統治を開始します。
イギリスは、パレスチナにユダヤ人の国家を建設しようというシオニストを応援し、第2代ロスチャイルド男爵に「バルフォア宣言」で、ユダヤ人に戦後の国家建設を約束してしまいます。
その結果、多くのユダヤ人がヨーロッパからパレスチナの地に向かっていくことになります。
第一次世界大戦後、イギリスの委任統治されたパレスチナでは、移住したユダヤ人と先住のパレスチナ人との間の激しい衝突が相次ぎ、時にはイギリスの機関もテロの標的となってしまうほどでした。
そして第二次世界大戦が始まります。
第二次世界大戦後、ナチスから迫害を受けたユダヤ難民がパレスチナへ移住してきます。
1947年11月29日国連でパレスチナ分割決議案が採択されます。
1948年にはイギリスは委任統治していたパレスチナから撤収することとなります。
多くのアラブ人が反対する中、イギリス・アメリカの支援を受けて1948年に「イスラエル共和国」建国を宣言します。
イスラエルの初代首相はベン・グリオン。
ポーランド生まれのユダヤ人で、シオニズムの指導者として活動していた人物です。
ベン・グリオンは後に、当時のパレスチナでの生活について「自力で土地を開拓しなければ、土地は我々のものにならなかった。ユダヤ人の村でアラブ人が働くのは危険だと考えていた。しかし我々はそこでアラブ人と衝突したことは一度もなく、アラブ人の憎しみを買うこともなかった」と書き残しているそうです。
こうして1948年5月14日にイスラエルが建国を宣言すると、アラブ連盟軍が一斉に侵攻し、パレスチナ戦争(第一次中東戦争)が勃発します。
しかし、アラブ連盟軍は、英米から支援を受けたイスラエル軍に撃退され、イスラエルの建国は既成事実化されていきます。
1967年、イスラエルとアラブ連合(エジプト・シリア)の間で第三次中東戦争が勃発します。
この戦争で圧勝したイスラエルは、ヨルダン川西岸地区と東エルサレム、ガザ地区、 シナイ半島及びゴラン高原を軍事占領下に置きました。
国連は、決議242号を採択し、 イスラエル軍の西岸及びガザからの撤退を求めますが、イスラエルはこれに応じませんでした。
軍事占領下では、パレスチナ人の基本的人権は保障されず、社会・経済の発展も阻害されました。
またパレスチナ難民キャンプでは基本的な生活インフラも整備されず、生活環境は劣悪なまま放置されました。
1970年代に入るとイスラエルによる西岸・ガザ地区への「入植地」建設の動きが強まります。 90年代までには25万人以上のユダヤ人が入植し、パレスチナ人の危機感が高まっていきます。
1987年、パレスチナ人の不満が一挙に爆発し、 ガザ地区の難民キャンプから「インティファーダ」と呼ばれる反占領闘争が広がります。
デモやストライキ、子どもの投石、イスラエル製品の不買などの抵抗運動は世界中に占領の実態を知らせ、 イスラエル国内でも占領の是非に関する議論が起こりました。
こうした状況を受け、1993年にノルウェーの仲介により、 イスラエルのラビン首相と PLO(パレスチナ解放機構)のアラファト議長の間で「西岸及びガザで5年間のパレスチナ暫定自治を開始する」という暫定合意条約(オスロ合意)が米国で調印されることになります。
ところが、イスラエル、パレスチナ双方の内部には「オスロ合意」に強く反対する勢力が残っていました。
1996年にはオスロ合意反対を掲げる強硬派「リクード党」のネタニヤフ政権が生まれ、パレスチナ側のテロも続発するようになります。
その時のテロの一つが、今回話題となり、問題になっている「ハマス」です。
「オスロ合意」に対して面白くない強硬派「リクード党」などの極右シオニスト派にとって「ハマス」は同胞のようなものです。
何故なら、ハマスもこの「オスロ合意」に反対していました。
同じ考えを持っていたのです。
世間には出ていませんが、「ハマス」に資金援助をしていた歴史事実があります。
これは、Wikipediaにも出ていた、公表されていた事実なのですが、今はその歴史事実をネット上から消し去られています。
当時、「オスロ合意」に活躍したイスラエルのラビン首相は、暗殺されています。
そして、米国でブッシュ政権が誕生し、イスラエルでリクード党の最強硬派シャロン政権が生まれると、情勢が一気に悪化し、「破局」へと向かっていきます。
次回は、そのハマスについて掘り下げていきます。
又、極右シオニストについても今後のブログで掘り下げていきたいと思います。


