それはよくある挨拶なのだが、
方法・手法というものがアタマをよぎって、ハッとしたのだ。
(写真は松本城)ある主題についてのレジュメをマッピングして
「まだ埋めきれてませんが」という断りをつけて送った。
マッピングでなくても「欠番」はよく使う。
空白を発見していくために空白のまま、公開する。
で、この空白を埋めていくのは「一人ではない」
という前提でオープンにする。この前提は、本人にも相手にも、明確には意識されていない。
そこに、〈方法〉が眠っていることがある。
丸山真男的な「学問の型」からすれば「手抜き」であり、
「型なし」ということになるような未完成の状態。
もちろんわれわれがやっていることはもともと、
ペーパーワーク(論文生産)とは、直接の関係はない。
チュートリアルの当日には完成したものを配布することになるが、
先輩のコメントで、ああそういう気持ちで「公開」していたのだ、
ということに気づいたのだ。
空白が生まれる理由は複数あるが、
一つは主題から比較的遠い距離にあるモノが、
喩えれば、外堀にぷかぷか浮かんでいるのが見える。
この喩えで言えば主題は本丸に当たる。
外堀にあるものを保持しながら、本丸へと詰めていくことになる。
今回の主題はヘーゲル。文献は長谷川宏『新しいヘーゲル』。
外堀には、ヘーゲルと同時代の「ドイツ・ロマン派」や、
京都学派の田邊元の仕事などが浮かんでいる。
ロマン派には文学だけではない、シェリングなどもいる。
もちろん、より現代に近いところにマルクスらの青年ヘーゲル派もいる。
本丸から外堀まで広がった網を引き絞っていく。
これを一人でやり切ることはできなくはない。単立の論文やレポートや著作や原稿になる。
そういう単立の「完成」以前の、途中プロセスを公開していくことは、
すでに〈コレクティブ・ワーク(仮称)〉が始まっていることになる。
