これはこれで相当慎重にすくいとっておかないといけないことなので、ごく簡単に言葉をスケッチするだけにするが「歌舞伎がガラクタなら、シェイクスピアもガラクタだ」ということ。そこから普遍を芸能する、といったことになる。いわゆる西洋に追いつき追い越せ的な「新劇」批判と受け取ることもできるが、そう言ってしまうと大切なことを捉え損ねる気がするので、今日のところは深追いしない。
乱暴な転喩に近い言い方になるので、これも仮置きでメモしておくに過ぎないが、この鈴木忠志の方法は、哲学で言えば戦前の京都学派だろう。同じ学派で「近代の超克」を言った人々もいるので、話はもう少し限定的にしないと不正確になるが、西洋哲学に睥睨するでもなく、東洋日本の優位を言うでもなく、対等に対峙する外連味のなさというか、そういうものを湛えた京都学派を指している、と釘を刺しておこう。
より端的に言えば、いちいち「日本の」と言わない。そういうことになる。
副題の「さかのぼりドイツ観念論」は、NHKの「さかのぼり日本史」にならった。この「さかのぼり」は時代のネジリハチマキとして、そういう時期が確かにあったと特定できるし、今もこれはどこかで作用し続けているし、作用していてくれたほうがいい動きだが、単純にはマルクス→ヘーゲル→カントなどへと遡っていくことを指している。これはアジア日本の位置に立って言えば、〈受容〉の問題を解きほぐしていくことでもある。
エドムント・フッサールは19世紀末から20世紀の前半に活躍した人だから、ドイツ観念論というのはぴったり来ないが、やはり戦後に日本に入ったフランス経由の〈現象学〉から、オリジンであるドイツで起こった現象学に遡るという意味では、同じく〈受容〉の問題をはらんでいる。
1930年代から戦後にかけての和辻哲郎の仕事である『倫理学』も、方法としてフッサール現象学の姿勢を取り入れて書かれている。「さかのぼりドイツ観念論」は明治維新、敗戦と戦後、そしてベルリンの壁崩壊あたりと3つの節目を跨いで遡行し、そして折り返す作業になる。
フッサール現象学の受容という点で言えば、これは日本に固有の問題ではなく、最初期のフッサールの仕事は、現象学未満であるという見方から、ほとんど取り上げられていないという不足感があって、これはこれで、一種の「さかのぼり感」を感じながら、しかし、まず読むべきは1891年の『算術の哲学』だという確信がある。
これ、残念なことに日本語の翻訳が出ていない。ようやく見つけた英語版を読み始めた。英文テキストを、写経のように、折りに触れて記事に上げていくことにする。
今日のところは、英訳を担ったDallas Willard氏のイントロダクション、その冒頭だ。
This volume contains the main body of writings that emerged from Edmund Husserl's first philosophical project.