和辻哲郎の〈方法の限界〉に突き当たりたい。 | 編集機関EditorialEngineの和風良哲的ネタ帖:ProScriptForEditorialWorks
「〈災後〉に読む和辻哲郎」ですが、

今年から「共読」形式で進めています。

これを録音しておくとオーディオブックにもなることに気づきました。

段落ごとにみんなで音読していくからです。

ただしブリリアント・インテレクチュアルは抑制される(笑)

下手すると小学校の国語の時間になりかねない。

その分、より多くの人が参加しやすくはなる。

まあ、フリーディスカスの時間をくっつければ上等ですが、

そこまでの時間の余裕がないのが悩みどころ。

それはさておき、先月2月の読み会で私が一番突っ込めたのは、

和辻の言葉は「ノエマ的意味に転化する溶炉である」フレーズについてでした。

動的連関から切り離された「倫理」というラベル的言辞は、

本来そこに動いて存在する事態・関係を掬い取る

レオモード的なものである、

そういうことを言ってるなと。そこにおいてこそ、

習俗風習、ひいては「秩序」も、

生成「実現されている」、いる「はず」だ、という気づきでした。

以下メモランダム

・動的存在はノエシス的である。

・関係が成立する基盤

・「そろそろヨメでも」という集団的意向は、実にオーダー(秩序)の源泉であったりする。もともとあぶなかっしいものであるからこそ、ショックアブソーバーを生成するところにあった。

・法制的規制秩序のノエマ的表層として一人歩きする時代にある。

・「ありうべき近代を志向する和辻」

・「当為」であるのは十分条件であるかも知れないが、倫理という動的連関にとって、その条件を満たしきっているのではない。必要十分条件ではないのだ。僕らはおうおうにして、

倫理のノエマ的一面を倫理と混同しているに過ぎない。

オートポイエーシスとか自己組織化を持ち出してもしかたないが、

その先取り的倫理学であると言っても言い過ぎじゃない。

「能と和辻」→日本精神文化論

「一向宗の○○(聞き取れません。要確認)」

・恋愛がマニュアル化されていった80年代

・倫理性の欠落

・信の構造と信の欠如態と信の欠如態の構造

ノエマ的に固められて転化していった事態

・「溶炉」に入ろう。

・性善説と生物学

・函数・法則性

・具体性とは二重性である 量子論

・あいだ

・人の発声はステレオになりえない、発話はつねにモノラルである

・一度に二重性を言語化できない

世間としての人間は明治以降、断絶した

・じんかん 北村透谷の時代

・和辻の敵

・ノエシス(コトもしくは動的事態・運動)とノエマ(モノ・レッテル的常識的概念・わかったりつもり)の言い換え、熟語化の運動 再定義の運動

・マルクスの自然概念(実体ではなく実質)動いて働いてるだろう。そこに。

大道廃れて仁義あり

・人とヒトと人間とじんかん 普遍倫理

・十円ハゲと普遍性

・サルにはないヒトの母体と胎児の協力作業 (マリとプチ)

・「あちらが立てば、こちらが立たず」こそ倫理的事態ではないか。
この事態を支えきる(持ちこたえる)のが倫理(的運動)

・欧米の教会の役割と日本の寺社(縁側の喪失)

・30年代的保守とファシズム

・「同中心」と無限

・・・・・

和辻の方法の限界に突き当たりたいと思います。

(もう突き当たってるような気もします。但しこの限界とは、和辻「日本的回帰」と呼ばわってづけることとはなんの関係もない)。

We speak sequentially because we have only one vocal track and we write sequentially because books have numberd pages, but we don't think sequentially.―Ted Nelson

Ou est la societe!

続きは本日午後3時より。