昨日テレビで、ニュージーランドのフィヨルド(氷河地形)
を観て思ったのは、
「相対的安定期」というものを、もっと思い知ったほうがいいんじゃないの?ってことだった。
ニュージーランド自体が、約2万4千年ほど前の地殻の大変動で沈んだり、
また隆起したりを繰り返して今の姿に落ち着いている。
そこにフィョルランドがあって、氷河期の記憶を残していると。
おそらく3月11日が、日本列島についてこの相対的安定期というものを、
思い知らせてくれたはずだが、「それで?」「それがなに?」というのが、
なんというか「生きる力」だったり、「前向きの姿勢」だったり、正常性バイアスだったり、安全バイアスだったりする。
まあ、それはそれで必要なものだとは思うが、
それほんとに正常なのかよ?
安心なのかよ?と思う。
けっこう困難っぽいお題ではあるけれども、そこをなんとか、
「人間の条件」に繰り込む行き方は、ないもんだろうかと考えたりする。
社会はもともと市場(マーケット)よりも、もっとでかいスフィア(圏域)に包まれていて、
そこから来る変動要因をしこたま浴びせられながら、
ここまで来たのが歴史というものであるとしたら、
そのことを、正月くらいは、しっかり嚙みしめても
バチはあたらんだろうと思う。
「安定成長」とか、「持続可能な」とか言ってる、その時間スケールは、
いったい何分何秒なのだ?
ひょっとするとカップ麺が食べ頃になる3分より短いんじゃないか?
年末ちょっと話題になった「マヤ暦」はワンサイクルが、
確か5千100と十数年だ。
それでも命を大切にとか、安全・安心とか言ってる、その命とかその安心とか(安全は実はあまり時間意識カンケイない。そりゃ速攻でしょ、常に。)、
どうもなんちゃら安全週間ほどの、テキトーなやり過ごしに過ぎんのではないか。
存在と時間について、悠長か刹那か、どっちもほとんど御同類だと思うが、
そうじゃない一瞬と一刻に、つながるプラクティスとして、刻み込むべきじゃないのかと。
これ以上、ここで速攻展開するのは難しい。けど、
まあ、ちとトライしてみることにします、2013年。
というよりも、かつては(っていつ頃?)
たとえば政治家ってのは、
そういう悠久の時に竿さして、
日々の暮らしにご託宣を下知する役回りではなかったのか。
おっと、政治家じゃないね。こいつはおおかた近代の産物だからね。
てことは、政(まつりごと)だね。
これを時代錯誤なんてイチャモンつかないように敷衍できれば、
いけるんだけど・・・
