Foldericoという美しいシェル拡張を見つけた♪ | 編集機関EditorialEngineの和風良哲的ネタ帖:ProScriptForEditorialWorks

オウム真理教から、チベット密教を含む仏教の用語・概念を奪還せよ!という記事を書こうとしていたのだけれど、そろそろ季節もムシムシ暑苦しい頃合いを迎えるので、無事、夏を乗り切ったころに再挑戦することにした。


それにしても、だいたいマイトレーヤ(弥勒菩薩)など、仏教の言葉の大元にはサンスクリット語があって、それが中国を経てわが列島に渡来したものだった。


このサンスクリットまで思考を到達させつつ、日本仏教を実践している僧を僕は、一人しか知らない。


足立区青梅真福寺の御住職だ。


しかし、長きにわたって日本の倫理思想の支えになってきたと思しき仏教的なるものは、特段にサンスクリット語に通じていない多くの人にとっても、そうであり続けてきたはずだ。


そこには、「日本という方法」が介在し、チベットともインドとも中国とも違う日本仏教が成立してきたはずだった。それは知恵というしかないが、しかし、その知恵の泉自体が、いまやメルトダウンしようとしている。


葬式仏教に平準化された時代に突出した特異な「仏教」教団オウムは、その溶解に対してアンチテーゼを差し出した最期ッペだったと見ることもできる。その教義は、今思えばデタラメと言っていいだろうが、しかし歴史を経てこの列島が外来思想である密教を含む仏教を、取り込んでいった過程を、一挙的に凝縮してみせた例とも言える(まあ、あからさまにモダニズムだが)。既存仏教界は、これに徹底的に対峙することがなかった。


なぜならまずもって資本主義が新興宗教であり、われわれ一人一人がその信者でもある、という世界史的事実があるからだ。


誰の言葉だったか、「資本主義は砂漠に咲いた徒花である」。


そして、この砂漠の砂塵へと日本という方法も無化されかねないことを示したのがオウムだった、とも言えるのだ。


ということは「日本という方法」が問われ、とりあえずあの時点で、この方法はメルトダウンを遂げた、と断定したくもなる。


さて、Folderico。これはフォルダアイコンを自在に変えることのできるツールで、日本人作者による近いツールもすでにたくさんあるが、何せフォルダが美しい。かつバリエーションが豊富。


編集機関EditorialEngineのシンプルマップ的ネタ帖:ProScriptForEditorialWorks-Folderico

僕は、デスクトップ上でフォルダアイコンに意味を持たせて、ドラッグ配置することで、ダイヤグラムを描けないないかという夢(笑)を持ち続けていて、これをテーマにした連載企画を8年ほど前に「アイコンマン」というペンネームで某月刊誌に持ち込んだが、見事にボツった(爆)。


まだ、夢は捨てていない。近似的なことは、ある程度、できるようになっている。