腰の曲がったお爺さんに出会った。 | 編集機関EditorialEngineの和風良哲的ネタ帖:ProScriptForEditorialWorks

煙草を買い足しに出た道すがら、腰を曲げて杖をついて行くお爺さんとすれ違った。


で、また吉本隆明さんを思い出してしまった。


僕は勝手にいつのころからか、吉本隆明さんのことを、隆明伯父さんと呼ぶようになった(もちろん、胸の内でだけのことだが)。


大正12年生まれの伯父貴と、なぜかその像が重なってしまったからだ。


大正12年と言えば1923年。吉本隆明の一つ年上ということになるが、まったく同世代の人だ。


これは後で気づいたことだが、誕生日も近い。伯父が11月8日で、吉本氏が11月25日。


伯父は、1945年12月にソロモン島から郷里へ帰還したその日のうちに息を引き取っている。22歳になったばかりだった。


この伯父の最期の様を、子供のころから親爺に聞かされて育ったせいだろう、たった一枚遺された写真でしか見たことのない伯父が、まるでそこにいるかのような思いが持続することになった。


これが思春期に出会った詩人・吉本隆明となぜか交錯することになる。


今から思えば、これはねじれたエディプス・コンプレックスのようなものだったのかもしれないと思えるが、生前に会ったことのない死者の記憶が、目の前にいる存在よりも親しい、ということは起こりえるのだ。


これはしかし、自分のこういう「隆明叔父さん」に限ったことではないのであって、たとえばなんでもいい古典と呼ばれるものを読むときにも、近いことは起きているはずだ。


僕はそこまでではないけれども、例えばいまだに太宰治ファンの墓参が絶えないという例など、その典型だろうと思う。


漱石であれ、トーマス・マンであれ、ゲーテであれ、マルクスであれ、中原中也であれ、ヴィトゲンシュタインであれ、カントールであれ、起きていることだ。


「隆明伯父」がちょっと変わっているのは、そこに実の伯父の像が介在し、それに媒介されているということだけだ。


語り聞かせや、本の役割などは、実に生者と死者の境を越境する不思議なメディアでもあるということに、あらためて気づかせられる。


なんの関わりもない、そこを行く杖をついた老人の姿が、そういう媒介であることもあるのだ。