「戦争は犯罪ではない」補足 | 編集機関EditorialEngineの和風良哲的ネタ帖:ProScriptForEditorialWorks

旧ソ連型一党独裁を、いまさら総括するものはいない。


しかし「アラブの春」や朝鮮半島北部に起きている事態は、レーニン、スターリンと継走された歴史の、継承されたバリアントであり、その縮小再生産に近いものがある。


自由を叫んで大衆を領導した者が、その自由を奪う。だが、この自由はフランス革命の自由だ、ロシア革命が目指したものではない、などと言うなかれ、と今さら断る必要もないだろう。これらの同質性を説得力をもって語ることは、たしかに難しい。


しかしどちらにせよ、「独裁」は現に現象しているのだし――「多数決」もその一バリエーション、従属現象と考えてみるほうが、むしろ今現在は視野が広がるはずだが――ナポレオン・ボナパルトの自由防衛軍と、ロシア革命由来の革命政権防衛のための反政府分子粛正のホロコーストとを区別できるものは、おそらく何もない。これ自体、つまり区別しがたいかもしれないということ自体、新しい恐怖(テロル)だ。


戦争とテロリズムは異なる、とされてきた(奇しくもブッシュは、9.11を指して「これは戦争だ」と言ったわけだが)。そのことだけが――つまり国連決議と国際法の存在が――フランス革命由来の米国ピース・メーカーの論理と士気を支えてきたわけだが、その士気も今では怪しくなってきている。


身近なアジアの「独裁国家」北朝鮮、というよりも朝鮮労働党の一党独裁は、第二次世界大戦終結をはさんで、旧ソ連によって支えられた。


ソ連崩壊後もそのまま放置されたかたちの北が南に対して行っているのは、いまのところテロだろう。しかしどうも「戦争」の概念自体が崩壊の最中にあって、いまその断末魔の時期を迎えているように思える。つまり、ブッシュの詭弁が、詭弁とは聞こえないような時を迎えてしまっているような気がする。


「戦争は犯罪ではない」と言えるような戦争は、敗戦国日本が「戦争を理解する」という努力をほぼ放棄して済ませているうちに、「戦争」の側から総崩れになろうとしている。


しかしそれは「恐怖政治」や「戦争」の終わりを意味しない。


とっくの昔に、と言っても9.11以降だが、戦争という名のWarCrimesが発動しているとすれば――これは「東京裁判」によって作り出された「戦犯」とはまったく別物である――その意味で「見えない戦争」としか言いようのないような戦争には、すべて犯罪がからんでいると見るしかないのかもしれない。


このことを新しい「恐怖(テロル)」と言わずして、なんと呼べばいいのか。



南無阿弥陀仏