一枚のタブロオ(キャンバス)が一つの格子(ドット)になって、極端に言えば画廊に展示されている絵画のすべてによって、もう一枚の巨大な絵画を構成する。
そういうこともできなくはない。
山口喜造のペインティング・ワークは、そういうワークにもなっている。
これは結局、絵を観る側の「観者」のなかで起きること(構成)にもつながる。
明日開催のトークセッション「絵画と見ること/絵画を観ること」の「見」と「観」の使い分けはたんなるレトリックではない。
言語の側から「絵画を観る」ことは出来る。というよりも、たとえば現代詩を読むときに近い状態が「観者」の側に起きている。たぶんこのことは見ている絵画が抽象画か具象画かの違いを超えて起きていることだと思う。
こういうときに実は自己表出と指示表出という吉本隆明の概念はかなり効いてくる(この概念については『言語にとって美とは何か』を参照)。
そこに意味があると思って(「かまえて」と言ってもいい)観たり、読んだりすれば逆に難解になったりする。
「意味などない」と思ってそうすればとりあえず難解ではなくなる。感覚的な表象の点滅を受容することで、甘かったり辛かったり、酸っぱかったり、しょっぱかったりするその五感の反応だけで終わることもあるとしても。
ここで「意味がない」というときの「意味」は、通常「指示表出」の側面での「意味」だが、「ナンセンス」に意味があるように、「自己表出」の側の意味が存在する場合がある。
この二つの「織物」が世界だろう。あくまでも「人間という条件」下での制約的世界だが。そしてときどきこの「制約」を超えて出ようとするみずみずしい力に遭遇して、ヒトはいつもになく感動するのだろう。
「見る」ことのほうが「読む」より簡単に思えたりするのは、受動・能動の差異に過ぎない。
そんなことを教えてくれるのも「手書きのモザイク」を中心にする山口喜造のワークだからこそなのだが。
明日は、「写真と絵画」の関係について作者に質問しみようと思っている。
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