吉本隆明の著作には独特の言い回しや語彙が頻出する場合が多い。
それは言うまでもなく奇をてらうためのものではないし、いわゆる「詩的な語感」からのみ選択されたようなものではない。しかしおおむね、そういう見方によってただ「難解」で片付けられたり、語の本来の意味での批判からは遠いところで放置されて来たものがかなりある。
たしかに一般的に言って、吉本の文章は「たいへんわかりやすい」とは言えない。しかしそこに生まれる「難解さ」は、実は数学でいう「公理」にあたるようなものを、手探りで浮き彫りにし掴みとろうとする「記述」の過程から生まれてくるもので、奇をてらうための韜晦趣味のようなスタイルなのではまったくない。
くわえて吉本の用語には、数学を含む科学・技術の用語が説明なしに使われていることがある(たとえば「素子」)。これは確かに「読者」にとって不親切かもしれないが、旧制中学から大学、勤労動員の現場に至るまで応用化学を中心に鍛えてきた科学や技術の思考法が、たとえば「言語」という対象化しにくい対象に向かうときに、自ずと作動してしまった素養ともいうべきものだと思う。
その手慣れた用語を使うことで、書き手の思考にはドライブがかかるために、勢い読者は置いてきぼりにされるということも生じたと思われる。
理論的著作のなかでは特に、「まだ組み立てられていない(未定義なのではない)」ものとして独自の概念を主題に向けて放り込みながら記述が進んでいく。読者によっては「その気になる」余裕さえ与えられないだろう。
「まだ組み立てられていない」ものとは、要するにたとえば生命をなす人体の構成要素を細胞・骨格・臓器などなどと解剖学的な概念に腑分けして示すようなときに、必ず直面せざるを得ないような記述過程や作業手順、作業仮設の宿命と言っていい。
しかしその記述が目指すのは生きてそこにあって働いている「生命」だ。解剖そのものが目的なのではない。
生命をそのまま歌えない齟齬が生まれたとき、歌を取り戻そうと思ったとき人はどうするか?
反省的意識を発動させて、その時代歴史的な不能の仕組みと機能不全の要因を探り出す作業に入るだろう。
理論的作業というのは、そういうもの以外ではありえない。
しかしさらに吉本は、その作業のさなかでさえ、「詩」を手放そうとしなかった。
図式的な言い方をすれば、詩の実作と詩の理論的遡行の同時性という不可能性に挑んでいたように思える。
たとえば「読み会」で提起予定の『共同幻想論』を「詩として」読むという試みは 、その不可能性の「場合」を、ヒルベルトが言うような「無定義語」状態で取りだそうということにあたっている。
同時代に旺盛な詩作を続けた詩人は幾人もいるだろう。
なんなら、吉本が理論的著作に着手した時点で特定できる、他の詩人たちによる妖艶な詩作品を取り出して来てもいいだろう。
一方で、詩作を停滞させて自己表出(自己表現、自己主張ではない)として詩を、言語理論として確立しようとする吉本隆明という詩人が存在した。
つまりはその彼らが座った椅子の位置と環境の差異に、詩の発生を見ようとすることに近い。
そこにある椅子の形や環海の差異の彼方に存在する「同型」性を見出せるかどうか。
そこにこそ「詩(poesy)」が関与するのだと僕には思える。
だが、一足飛びには行けないのだ。
まずは、ポレミック・ポエムともいうべきものから片付ける必要がある。いやな仕事だが、だぶん他に仕方がない。