『共同幻想論』を「詩として」読むということ、その真意は。 | 編集機関EditorialEngineの和風良哲的ネタ帖:ProScriptForEditorialWorks

詩人としての吉本隆明、父親としての吉本隆明は幸せであったかもしれない。しかし、「理論的著作」の著者としては、良き読者に恵まれたとは言いがたく、とても幸せな著者であったとは思えない。


そもそも、それは「理論的」著作であったのか?と問うことは、むしろ救いである。さらに理論的著作として「読む」とはいったいどういうことなのか?と問うてみればいい。すぐに日本語の問題と、言語はつねに言語についての言語であるという困難に目覚めるだろう。


翻って、詩を読むときのリーディングと、理論的仕事を読むときのリーディングはどう異なるのか? 吉本隆明のいわゆる「三部作」を宿命的に読むということがもしありうるとすれば、たとえば『共同幻想論』を「詩として読む」ことは可能である。


ただし、この場合、語の曖昧さや論証の不可能性、論理の破綻などを不問に付していいということではない。


「了解」において読むことを第一義とするということを「詩として読む」と言っておく。


そのうえで不明な点は、直接おもむいて、問いかければ良かっただけのことなのだ。


残念ながら、それはもうできないことになってしまった。10数冊近くある(もっとか?)吉本隆明論のなかで、直接赴いて尋ねるということを試みたものは一つもない。とくに「理論的著作」を扱ったものほどそうだ。これは、奇妙なことと言わざるを得ない。理論的著作として対面する姿勢が真摯であればあるほど、故人でなければ訪れて対話を行うということはおおいにありえたはずなのに。


もちろん吉本さんの側にそういう構えがあまりなかったということもあるかもしれない。いわゆる研究者・学者ではないからだ。


逆もあるだろう。『言語にとって美とは何か』を書くうえで、高く評価しつつその説を援用して自説の一部を敷衍することになったときの参照先、国語学者の時枝誠記との間では、時枝のほうが、吉本を無視したということもあったようだ。


テクストを虚心坦懐に読めばよい。先行した論評家のほとんどが頼るに足らずと見えるかぎりは、この虚心坦懐が唯一の救いだが、それにしてもいったい何をしてきたのか。


なんとも、しんどいという気分と、かえすがえすも残念という以上に悔しさに似た感情が襲ってくる。いや、これはなかなか本当にしんどい。


その理論はもうとっくに「乗り越えられた」とか、「古いよ」とか、そういうとっぽい話は、あさってにしやがれ。


そういう古いだの新しいだのいう話ではないのだ。


「詩として」読む、ということをどう救い出せばいいのか。お断りしておくが、たとえば『共同幻想論』を詩として読む、というのは、「あれは理論とは言えない代物で、まあせいぜいのところ詩みたいなもんさ、文学だね」、などとという、訳知り顔で貶めるための表現ではない。まったく逆の意味で言っている。


文学(poesy)を、なめてもらっては困るのだ。


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