といっても、この町は地場の小さな商店街を念頭に置いている。
草は一年草、多年草いろいろだ。
店はほぼ人の生涯に歩調を合わせて盛衰する。
一代目で終わってしまっても、生涯ということで言えば、少なくとも五十年は存続するはずだが、最近では早いところでは数ヶ月で店が入れ替わる。
こういう場合はおそらく、地場の商店が二代目、三代目を喪って土地ごと売りに出され、
そこにまったく異なる業態の店がオープンしているということだろう。
不動産業が介在することが多いはずだ。そうするとそこにはもう、植物の喩えは成り立たないような、別の時間が流れ始める(この別の時間を剔抉せよ)。
だからつい数ヶ月前にオープンしたはずのラーメン屋がもうカンバンを変えている(この別の時間を剔抉せよ)。
そういうことが頻繁に起きている。
だが、町を植物に喩える見方は、小さな救いだ。
吉本隆明が亡くなった日、吉本ばななは「いつまでもそこにいてほしい」とツイートした。
僕は、娘としてのツイートである以上に、
お爺さんやお婆さんの存在様態を把捉しているように思えて感心した。
年寄りはいつも同じことばかり言ってつまらないでしょうと吉本が言っていたことを踏まえている。
これは吉本父娘に限られない、そこに居てくれるじっちゃんやばっちゃんの、言葉を超越する「存在の意味」だと思われる。
通常、こういうありきたりの、しかし今ではますます喪われていく存在の様態とでも言うしかないものに「思想」が迫ることはほとんどない。
しかし、吉本はそこに届こうとした稀有な「思想家」だ。
命日に詠んだ、小生の一首というか句を、吉本ばななへの返歌としよう。
いや首でも句でもない。これらは定型からはまったくはずれたままだ。
母の前で本を読む
恥じらいを知らずして、
物書くなかれ、物言うなかれ
アジアのぬくもりアジアの冷温、
その破瓜を論証せよ
・・・
このあとえんえん続くので、苦吟非定型句を別の場所であらためてひとまとめにするしかない。
「生理的時間」について、吉本隆明は自身の老いを対象化しながら『悲劇の解読』に綴り込んだ。しかし、この書物を読み返そうという元気は、まだどこからもやってこない。
合掌