Keep On Writing like a JANIS JOPLIN:メモ(8)詩の日付 | 編集機関EditorialEngineの和風良哲的ネタ帖:ProScriptForEditorialWorks

歴史上の事件、出来事は日付を持っている。


遡れば遡るほど、正確な日付は不明確になることが多いにしても、それでもだいたい何年頃というあたりまでは特定できる。特定できからこそ記録されている。


おそらく音楽がもっとも早くそうなったと思えるのは、時代や世代のしらがみを脱けさせる、いつでもつねに、いま現在の音として聞けてしまう「アーカイブ」状態の出現だ。


「Keep On Writing like a JANIS JOPLIN:メモ」にアップしている楽曲やボーカルは、60年代のものが多いが、特にこの年代を狙ってわけではない。初めて聞く人の耳にとっては、それがいつリリースされたりオンエアされたりしたかということは、感受になんの影響も与えないだろう。


「音楽史」とか、「ロックの歴史」といったフレームを与えることで、「日付」は初めて意識されることになる。


それでも、言葉に比べれば、音は時代や世代からニュートラルでいられる度合いが高い。


あまりいい言い方ではないが、音楽のほうが言葉に比べて「浮き世離れ」した存在だからだろう。


言葉のなかでも浮き世離れの度合いが比較的高いものに「詩」がある。


「現代詩」と呼ばれるものは、しかしとても音楽のような意味では浮き世離れできない存在のようだ。


その可能性と存在理由を問われ続けるような性格を、それ自体が持っていると考えるしかない。


簡単な話が、現代詩の世界に「歌姫」は存在しない。


なぜかを問おうとすると、ますます「日付」に、言い換えれば、歴史としてトレースしてみるほかなくなる。


するとますます世知辛く?なる。


歌と詩をつなぐかも知れないものとして「アカペラ」にたどり着いたのはいいが、


それを現代詩のほうに返していく道は、なかなか見えてこないのだ。