いまさらながら実存主義は、やっぱまずかったね。
かあちゃんのお腹からオギャと生まれて来た、
という事実に対して、
「それで?」、と言えてしまう態度を多かれ少なかれこさえちゃったんで。
サルトルを読み込んで来た人には申し訳ないけど、
どうも「俺さま限り」の刹那主義的な突っ走りであったとしか、
いまじゃ思えない。
パパのパパのパパはパパ、ママのママのママはママって思える歴史のセンスが失われた。細木数子の話じゃないよ(爆)
超歴史的存在に成るんだったら、「それで?」も凄みがあったろうけど、無理だね。マクベスにでもならないかぎり。
何が言いたいのかというと、こういう「それで?」が、
日本の戦後民主主義や左翼政治運動史の全部とは言わんけども、推進力の一つになってきただろうということ。
右往左往するのはつまらん話ではあるが、石原慎太郎の『太陽の季節』も、かなりジツゾンしてたからね。
ま、おめでたい。実におめでたい話だ。
この「それで?」が何を促したかというと、言論の世界では、
言葉の自己言及性を無反省にした。
たとえば「日本語は消滅した」と日本語で書く。そう書いているお手前は「何処」にいてそう書いているのかを、はしなくも反省するしおりというものがなくなった。
そして不思議なことに、この「それで?」は、
エグジスタンシャリズムとは縁もゆかりもない何かによって強化され浸透圧を高めたように思える。
この「何か」が何かは、どうもよくわからない。
というより、安易に言葉を与えないほうがいいような気がする。
そもそもヒトは、生まれ、喰い、生み、死んでいく。
その繰り返しだ。もう繰り返すこともなくなるのかもしれない。
ともかく、それほど大それたことをするために生まれてくるわけじゃない。
しかしそれだけの大それたことじゃないことをやっていくにも、
大それたに近いことを自ら施していかないことには、とてもたちゆかなかった。
いまその慣性力が、ついにその余力をすべて使い果たそうとしている。
「陽はまた昇る」なんて、のんきなことを言ってる場合じゃなさそうだ。
蛇足ながら、原発は人工の太陽エネルギーだ。仕組み的に「原子力発電」は、すなわち「太陽発電」。
「自然エネルギー」などと雑ぱくな物言いで、こいつを始末できるわけはない。
天然のお天道様にも寿命がある。
その上で、大日如来の存在、大地母神の存在は、
どうなりますか?
と、足立区青梅真福寺の住職に、いよいよお伺いを立てに重い腰を上げることになりそうな新年です。
