この論が一冊にまとめられ出版されたのは、一九六八年十二月五日のことだから、なんと四十三年前、実に「今さら」の感がなくもないが、実はこの「今さら」という感慨こそが、なんというかそれこそ「現在」のこの光景を生み出して来たのではないか、と思ったり。あえて「今さら」感を否定したり、押し込めたりしないで言ってしまえば、今さらのように、そうだこれを読み直したほうがいいんじゃないかと、まっさきに思えたのが共同幻想論だった。
この本には日本人によるフランス語版があって、一九八〇年代に出ている。
仏語版のタイトルは、L'Illusion commune。
幻想のコミューンとも、まばろしの共同体とも、イリュージョンとしての公共とも、いろいろ訳せてしまう(フランス語で「共同体」はCommunautéでcommuneは規模の小さい共同社会を指すことがあるが、どちらかというと英語のコモンに近い。communeが使われた歴史的事件にパリ・コミューン;仏: Commune de Paris、英: Paris Communeがある)。
オリジナルの共同幻想論は、漢文のように読み下せば、共に同じくする幻想についての論、幻想を共に同じゅうすることについて論じるなどと読むこともできる。
言いたいのは、この本というより、この言葉が降って湧いてきた、そういうことに近い。
言葉や言語は傷つきやすく、毀れやすい。これに比べれば、色や形は「自然」という直接性というか対象としての「自然」に直接する力強さを持っている。これはなかなか破綻するようなものではない。といったことをカラー・パーティ2011GREENの作品を見ながら思った。今年のテーマカラーが「緑」であったので、なおさらだったのかもしれない。挨拶を求められて、ここまでは言葉にできたと思うが、言い淀んでしまってうまく付け加えられなかったのも、実はこの共同幻想近辺、そこいらへん、のことだった。
「国破れて山河あり」の山河の色は、どんなものだろう、そんなこともどこかで思っていた。
