中沢新一さんが集英社の文芸誌「すばる」6月号に緊急寄稿した「日本の大転換」が、この6月7日に出た7月号で一応の完結を見た。
原子炉と「資本の炉」、原子炉と一神教を結んで見せる「日本の大転換」(上)では、その手際に目を瞠らされたが、完結編を読むと、キーワードの一つが「中庸(ちゅうよう)」であることが分かる。
(上)でいきなり脳内に大火災の火柱が上がるようなショックがあったのに比べて、「中庸」とはいかにも静かである。しかし、中道という意味に転じたり、タロットカードでは「節制」と訳されることもあるTemperanceにも近い中庸Mederationは、実は一筋縄ではいかない。
地震国日本の大地が揺れて止まないように、それこそ「振幅」なしには意味をなさないのが「中庸」だからだ。
決して激しいものではないが、字面ほど静かなものでもない。
「日本の大転換」(下)を読みながら連想した大天使ミカエルのタロットカードで言えば、よくある解釈では物質と精神のバランス。それも危ういバランスのことだったりする。その絵を見てもわかるように、水を注ぐ壺と受ける壺を両手に持って、それをつねに過不足なくバランスし、水があふれ出ることがないようにする、その意味での行為・行動としての節制、中庸であって、それはけして静止することはない綱渡りのような運動なのだ。
「精神と物質」という対語さえ、もうなんだか古めかしいものに思えてしまうほどであらためて驚いてしまうが、時代は言ってしまえば、あくまでも物質へ、物質へと向かって来た。言い換えれば資本を軸とする怒濤のマネーの力へと向かったと言っていい。
いや、そのようにマネー自体が変質して来たのであって、僕らの親爺の世代が「ナス袋」に入れてそれぞれの家に持ち帰っていた給料袋の「お金」と、リーマン・ショックに至るマネーとはまったく別物だろう。
3月11日以降を、ひょっとして「文化」のその先の「文明」レベルの大転換の芽吹きかもしれないとすれば、その前後を大きくまたぎ越していくためにも「中庸」の態度を必要とする。
なぜなら極端な話、マネーの奔流、資本の炉の力に精神力のみで立ち向かおうとするなら、それは死を意味することになるだろうから。
そこは大天使ミカエルが両手に持つ二つの壺のように、どちらかを破損することなく、しかし一方向に傾きすぎないように渡り合わせながら、そしてたゆむことなく運動し続ける以外にない。
それも出来るだけ速く。
昨今のたかだか百数十年の「文化」でしかない政治のシーンにあてはめて言い換えるなら、反原発でも脱原発でもなく、語の本来の意味での「原子力批判」に向かうほかない、ということになるだろう。
中沢新一さんは、そのことを、今回の緊急寄稿のなかで「エネルギー存在論=エネルゴロジー」と呼んだのだろうと思う。
