「原爆」には怒りを覚えるが「原発」に怒りは感じない。 | 編集機関EditorialEngineの和風良哲的ネタ帖:ProScriptForEditorialWorks
などというと怒り出す人がたくさんいるかもしれない。

しかし、いま多くの人が怒りを感じているのは、半強制的に避難を指示されて想像を絶するほどの大変な苦労をされている方達も含めて、原子力発電「事故」、ないし「災害」に対してであって、あるいは事故に至るまでの国策無責任体制、そして内閣の名で呼ぶのもはばかれるような現内閣の事後対応に対してであって、原子力発電所に対してではなかったはずだ。

こういう事後に、ないし災害進行中のさなかに「反原発」を言うのは感情的に正しい。つまり「サルでもできる」ことだ。

その意味で私は「反原発」ではまったくない。

同時に原発安全神話信者でもまったくない。

「数学的にありえない」ことを、ありえると言ったり、そういう誤魔化しによって多くの人を騙し、あろうことか、それを政治にしているような面々に対しては、満腔の怒りを覚える。

というわけで感情的には「反原発」に流れるだろう、最近の原子力関連の研究者の物言いのなかで、数学的にもまあ、美しいかもと思えたのは小出裕章氏の原発エネルギー資源の希少性、そして高速増殖炉の不可能性についての論証だけだ。



その小出氏の論証にさえ、警戒すべきと言っているのは、毀誉褒貶の激しい方ではあるが、副島隆彦氏だけだ。
(3月11日以降の「文明論」として原子力を論じているもののなかでは、中沢新一氏のものが美しい)。

小室直樹の学問と思想

副島氏は、半強制的に退去を命じられている人々が「棄民」の状態に置かれることを阻止しようとしている。

だから小出氏の論証が正しければ正しいほど、「住めない」という論拠にそれが荷担してしまうことになるのを恐れている。

科学的な論証としてパーフェクトであることに、拍手喝采を送るのは当然だが、その美しさと、「住む」ということは、またまったく別の次元に属する。

浜を離れるわけにいかない。その浜から漁に出たいという生存権を、誰も侵害することはできない。

出荷制限をされていても、牛の乳を搾り続ける。しなければ牛の生命力を損なうからだ。絞った乳は捨て続けざるを得ないが、酪農をやめるわけにいかないという酪農家と乳牛の生存権を、誰も侵害することはできない。

「住む」ことができる「住める」ということに、論証の美しさも向かうべきだ。

しかし、小出氏のような論証と、「住める」ことに資するためのロジックを結ぶものが見当たらない。

これはなんとしてもつなげなければならないはずだが、それが出来ないでいる。

まずは「反原発」という感情は、この結合にとって百害あって一利なしということを知らなければならない。

その意味でも、現下のサルでも吐露する感情に便乗し、健全に稼働中だった原発を限定的停止という愚挙に出た人物などは、「サル以下」である。真っ先に唾棄されるべきだ。




PS.

3月11日以前から「反原発」の論調はもちろんもうとっくの昔からあった。

その代表的な論客として知られる広瀬隆氏が、3月半ばだったと思うが、あるネットTVの番組で次のような発言をしているのを聴いて、なるほどそういうことだったかと妙に納得してしまった。同時に、あきれてしまった。氏はこう言ったのだ。

「私の孫は高校生ですが、とっくにアメリカに移住しちゃいましたよ」と、まあ明るい声で、ほっと一安心といった調子で言ったのだ。ツアーで一時的に脱出というのではない。「移住」と言ったのだ。

そういうことだったのか、というのはそういうこと。

ロックフェラー財団か何かの留学制度でも活用されたのだろうか。

ともあれ、反原発は、これまで何も生み出してこなかった。自身思う存分に電気を使いながら、憎悪と恐怖のダイナモだけを回して来たに過ぎないという側面があることは否定できない。

反戦と似て、それがもし厭戦ではなく、戦争を阻止しようとするものであるのなら、論理的には戦争を阻止するための戦争を担わざるを得なくなるはずだ。

こういう自らの差し出す「反」が、自分の喉元に突き返されてくるという帰結を認めない「反」など、どんなものであれ、明日の存在理由など失っていくほかはないのだ。

それは「走行中のバスの運転手を、バスを止めることなく交代させるには、どうすればいいか?」についても、同様にいえることなのですが。他山の石、脚下照顧であります。