「夜警国家」というものが、 | 編集機関EditorialEngineの和風良哲的ネタ帖:ProScriptForEditorialWorks

どこかにあるとか、あったとか、それが望まれるとか、いいとか、悪いとか、という話ではないですが、「走行中のバスの運転手を、バスを止めることなく交代させるには、どうすればいいか?」 の続きです。


ひとつだけ、

「未曾有の大災害が暴いた」小さな誤認がありました。


といっても自分の不明を恥じればいいという程度の誤認。


これが社会的な大きな誤認となるとそうはいきませんが。


そういう「誤認」も、いくつもはっきりしてきた。


まず自分の誤認から。


「夜警国家」というのは、アダム・スミスが言ったことだと思っていました。


今回、調べ直してみて、ラッサールという人が唱えたものと分かりました。


国語辞典的には、次のようなことです。


国家の機能を、外敵の防御、国内の治安維持など最小限の夜警的な役割に限定した国家。

つまり、「夜警」という名のとおり、人々が寝静まった夜、泥棒が入ったり、外敵が侵入したりすることから国民を守る。国はそういう仕事だけをやる。そのように制限する、ということ。


「外敵」に「大災害」も含めることにすれば、けっこう今置かれている事態に近い話にもなる。


さらに言えば、国家はそれが存在することを意識されない程度に存在すればよろしい。


そういうふうにも捉えることができる。こんなものを持ち出すまでもなく、


料理をしたり、メシを食ったり、日頃の生活をしているなかでは、


そもそも国家なんてものを肌身に感じて意識するなんてことは、ほとんどない。


何か事が起きたときに思い出すもの、国家はそういうもんだと、


そういうふうにも言えるわけで。


要するに進行中のこの大災害で、「国家」というものが、


身に迫って来た。


そして政府と国家の関係や、「夜警」的な役割を果たすうえでのリーダーシップ、


というものに直面させられることになったと。


ここからは、ラッサールのいう「夜警国家」からはつかず離れずの話になっていくはずですが、


「有事・平時」のあることを、


意識しない近代国家、


というものはそもそも国家なのか?


ということを考えさせるきっかけになったと。


国なんてものを意識せずに「自由」に生きるなんてことを、


たぶんちょっとでも信じて来たとしたら、


もう少し不自由になって、その上で、


「自由」の意味を考え直してみようと。


そろそろ3月11日から四十九日になろうとしているいま、


がんばる前に、そういう意味で立ち止まってみるというか、


機能不全に耐えてみたって、バチはあたらないだろうなと