とつい言いたくなってしまうような「事象」が散見されます。
何とは言いません。西とも東ともつかないことなのかもしれませんし、
あえて「伝えない」というのも「伝える」ことの一つだと思うので。
「自粛」や「管制」ではなく。
グッとガマンするというのが近いのか。「待つ」というのが近いのか。
もちろん、地理的・距離的な温度差というものはあるでしょう。
しかし、意識を高める?大事な機会をムダにする、もったいない「事象」、どころか地に落ちる事象とも言えるわけで。
「経済を回す」のは、当たりまえのことです。
でも、「回し方」を変えていかなければならない。
どう変えればいいのか、まだこれという決め手もあるわけではない。
なぜかといえば、すでに「代替」を提唱する考え方は、いろいろと出て来てはいた。
そして3月11日に起きたこと、引き続き起きていることは、
それらの考え方の限界をも暴き出すような人災を含む災害であるからです。
その災害は過去形で語ることのできない、現在進行中の災害であるからです。
話が少々飛びますが、地理的・距離的な差というより、
それは感受性の差なのかもしれない。そしてさらに、
その感受性は個人差というよりも実は、むしろ西や東の違いを超えて、すでに
リベラリズム?によって摩耗され尽くしていたということなのかもしれない。
喉元過ぎれば熱さ忘れるとよく言われますが、
大災害発生から2週間余りが経過して、「忘れた」というのではなく、
そもそも何一つ「感受」していなかった、感受できなかった、ということもあるのかもしれません。
恐ろしいことです。