最初の「あとがき」 | 編集機関EditorialEngineの和風良哲的ネタ帖:ProScriptForEditorialWorks

「本の前に物語あり、本の後に物語あり」


エディトリアル・エンジンの口癖ということになっています^^


今日は、その話はしませんが、「XYZ」の4次元座標で、クラウド読書環境論を整理し、それを実装していくためのフレームワークにもなっているのですが。


さて、「あとがき」というのが、本にはつきものですが、ここには本編の物語とはまた別の物語が語られている、わかりやすい例です。「はじめに」とか、「まえがき」もそういうところがありますが、「あとがき」のほうが格別であることが多い。


あまりご同業の方とこういう話、確かめたことはないのですが、


入稿前の「あとがき」を読むと、ほとんどどんな本でも泣けて来るのです。


久保さんの本の場合もそうでしたが、


今回は、「ビジネス書」という縛りを意識して、著者自身が最初の原稿を没にしたいと言って来ました。


それで、余計に泣けました。


こんなことを言うと、自分で自分のクビを締めることにもなりかねませんが(笑)、


本というものに、カテゴリなんてない、と実は思っています。


そこには、「語り手」がいるだけ、というか、語り手の存在なしには、何も始まらないのが本なのです。


矛盾するようですが、このことをしっかり味わっておかないと、


「棚工学」はうまくいきません。


棚(カテゴリ)は作り出すもの、でもあります。もしくは、棚と棚とが共鳴しあって、トゥワイライト化していくもの。


その際に、かろうじて立っているのが棚だと思うのです。


そして、そういう棚の存在が立ち現れるのも、まだ本の形をなしていない、入稿前の「あとがき」に対する一編集者の感慨からだったりするのです。


とかなんとか言いながら、明日も、「この本、ちょっとこっちの棚に、これと一緒に並べてもらえませんか」、などと書店の店員さんにお願いしたりするわけですが、いったんは、自他が区別つかなくなる、黄昏(誰そ彼)時を通り抜けなければ、語り継がれるものは出て来ようがない。もしそれが出て来るのであれば、さらに自分のクビを締めそうですが(爆)、本である必要もないのかもしれません。


久保さんの本、『3つの聞き方だけで仕事の9割はうまくいく』、


その最初の「あとがき」は、こちらで読むことができます。


もう一つの「あとがき」

http://ameblo.jp/tendo-only1/entry-10448542154.html