平成25年1月23日(水)
[ よっちゃん]中二階の窓を見上げている。二階には、[シロ]ちゃんがいる。二匹は、窓越しなら秋波を送りあっているが、直接会うと、とたんにうなりあう関係。
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今回の旅の予定を、わざわざ横浜まで出向いて申し込んだが、今は、パソコン上で何でもできるので、旅行の申し込みなどは、家に居てできることなのだ。ただ、智子は、パソコンを持っていなかった。パソコンは、仕事柄よく使ったが、自宅で使うためのパソコンを買う余裕はなかったのだ。資金はともかく、パソコンに目を通す時間がない生活であった。あの研究室には、3台くらいパソコンがあったから、パソコンを自在に使えなくてはならないのだろうと予想された。
横浜に来たのは、10年ぶりだろう。結婚していた頃、休日には、夫の隆さんが、よく海を見たいと言って、横浜にきた事を思い出した。隆さんを思い出すのも久しぶりだった。あれからきっと彼は再婚しているだろう。義母が、あんなに跡継ぎを欲しがっていたんだもの、今頃は、二人くらい子供もいるんだろうと思われた。平凡な鈴木という名前を残してどうなるのかしら、日本で10指にはいるくらい多い名字らしいのに、ただ孫がほしかっただけだったのかもしれないわね。せっかくの横浜なのに、隆さんは寡黙だったから、二人で寄った中華店と、必ず乗った氷川丸の情景くらいしか思い出はないな。と改めて、智子さんは、浅かった結婚生活のことを思った。それにしても、車のセールスマンだった彼は、いつも海を見ていたけれど、何が彼をそこまで惹きつけたのかしら、これは聞きたかったわ。氷川丸に乗るといつも横浜港の向こうの海をじっと見つめていたわね。
智子さんは、[港の見える丘公園]によって、昼食用に買ったサンドイッチをほおばりながら、かつての暮らしを頭の中で転がしていた。膝には、公社でもらった八甲田山のパンフレットを広げて、読むでもなく、ただこれからここに生えている植物について学ぶのかと、ぼーと見ていた。まだ梅雨入りしてないので、公園には、心地よい風がふいていた。こんなにゆっくりした時間を過ごすのは、何年振りだろうと思っていた時、
「田所さん-ーー」と智子を呼ぶ甲高い声がした。エッ誰?とビクッとして声の方を見た。スーパーで働いていた時の、同僚のレジ係の佐藤由香だった。片手をあげ、走るように近づいて来る。智子は、さりげなく広げていた八甲田山のパンフレットをバッグにしまい、代わりに沖縄のパンフレットを手にした。佐藤由香は、明るい性質で、残業なども嫌がらずにやれる良い性質なのだが、何でも人に喋る癖があるので、今の智子には用心した方がいい部類の人物であった。交通公社を出る時、意味なく3種類のパンフレットを取り込んでいた。こうなると、虫が知らせたというしかないが、これを予想できるのは、K-30だろうと今は思える。よく虫の知らせというけれど、どんな人もこういう理由が分からない目にあうことがあって、運よくなどの言葉などが使われるようになったのだろうと思われた。
「久しぶり、まだ一週間しかたたないけれど、あなたがいなくなって、私なんか気心知った人が少ないでしょう。すごくさびしいのよ。あれからどうしてた?」4歳くらい年下だが、佐藤由香には、そんなこと気にもかけないことのようで、好奇心満々の様子で、智子にすり寄ってきた。
「こんな所で会えるなんて、びっくり。お仕事なの?」智子が佐藤由香と二人っきりで話すのは、今日が初めてであったので、当たり障りのない話で終わってほしいと願っていた。彼女は、会社でも、聞いた話をすぐ右から左へ橋渡しをするような役割をしていて、ただ聞く分には面白かったが、話の当事者にとっては、知られたくないこともあったようだった。そのことに気付かないところが、由香の欠点である。
「うちの会社は、この中華街とも取引があって、社長が忘れた書類を届けに来たのよ。契約更新とかで、社長自ら出向いているの。一応仕事は済んだので、ここでちょっと休もうかと思ってきてみたら、田所さんを見つけて、よかったわ」と、由香は、手にした缶ジュースのプルトップを引いた。
「旅行するの?」と、由香は、智子が手にしているパンフレットを目ざとく見つけ、尋ねてきた。
「いや、まだ何にも決めてないんだけれど、沖縄くらい遠くに行くのもいいなと思って、パンフレットだけもらってきたの。働いてもいないので、沖縄では、費用がかかり過ぎだけれど、今は暇だから、チャンスかなとも思って、迷っているところよ」
「いいわね。お金があることより、時間があることの方が羨ましいわ」と、由香の言うことはその通りだと、同じ仕事をしていたので、智子は賛同できた。
「すぐスーパーへ戻るの?」
「やはり便宜を図ってもらっている身では、遊んでいると思われたくないので、せっかく田所さんと会えても、お茶の一杯も飲めないわね。またいつか時間の取れる時会いましょう。お仕事が決まったら教えてね」そういうと、缶ジュースも飲み終わり、佐藤由香は、手を振りながら、横浜駅の方に去って行った。由香の言う便宜とは、会社の方針として、結婚している社員には、出来るだけ残業など、夕方からの仕事はさせず、仕事が原因の離婚などが起きないよう配慮しているのであった。由香は、それでも進んで残業を引き受けるので、みんなに好かれていた。
これで私は、沖縄に行ったことのなるわね。でも退社した社員の事なのだから、それほど話題に上がらないことを願うところだわ。万一、会社の誰かに会って聞かれたら、止めたと言えばいいことだし、佐藤さんの聞きかじった話は、いつもオーバーだと思われているから、ちょうどいいわ。これからは、自分の言動に気を付けようと、改めて、覚悟をした智子さんだった。
次に智子さんは、近くの大手の本屋によった。そこで[役に立つ草][食べられる草][毒草の見分け方]の三冊を購入した。どれも写真付きで、にわか勉強にはもってこいだと思われた。思いついて、占いの本棚を除くと、占いの館で見たように分野別に本はあったが、水晶占いだけはなかった。風水という言葉をこの頃よく聞くと思い、そのことの解説本も買った。

平成25年1月22日(火)
『シロ』は、この頃テレビの上で寝ている。ブラウン管からの熱で少し温かいらしい。
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カフェオレは、すっかり冷たくなってしまって、昔のミルクコーヒーそのものの味がした。午後5時過ぎだと分かり、夕食には早すぎ、昼食を食べ損ねた智子は、久しぶりに空腹感を感じた。スーパーに勤めていた時は、規則正しく昼食を摂っていたのと、廻りに常に食べ物があったせいで、空腹感が湧くということがなかった。この感覚は久しぶりだと、すこし笑みが出た。夕食の材料をこの辺りで買うことにして、駅前をぶらついた。一番陽が長い頃なので、5時といえども昼のように感じられ、多くの若者たちが行き来していた。たいてい4人~5人くらいの連れで、カップルよりグループの存在の方が多そうであった。智子くらいの年代のグループも楽しげに歩いていた。だからといって智子さんは、彼らを羨ましいと思ったわけではなく、この辺りのどこに向かっていくのだろうと、少し気にした程度であった。突然、さっきK-30が、宗像女史は、この辺りで若者狩りをしていると推察したことを思い出した。
くわばらくわばらと、さっさとJRの原宿駅に向かい渋谷で降りた。私鉄に乗り換え、地元のスーパーで、野菜類を買った。勤めていた時は、出来合いのものばかりだったので、野菜たっぷりのスープを作ろうと思ったのだ。ポトフとも言うが、出来上がりに二時間はかかるので、撮り溜めしていたドラマから、小林念持主演の『税務官』を選んだ。智子さんは、念持のとぼけた役どころが好きで、彼が主演の他のドラマも全部撮り溜めしていた。ーーーおばあさんが、孫をあやしながら、念持の税務官にこぼしている。「嫁の入れ込みはひどくて、私にこの孫を預けて、毎日のようにあの霊媒師のところに入り浸っているんだよ」---という言葉がはっきり聞こえた。それからドラマを真剣に見ていると、大金持ちの霊媒師が、今回の隠し財産の摘発の対象になっている話であった。霊媒師は、ハンサムな役者が演じていたが、彼はいつも教養ある悪役を演じているので、見ているものは、彼がどんなふうに、税金をごまかすのかを見届けることになる。怪しげな祈祷で、病人を治し、宗教法人登録で宗教の名のもと、税金のごまかしもある程度合法的である、というややこしい話であった。このドラマは、架空の話として笑ってみるように脚本家は書いているのだろうが、霊が、実際に存在することを知っている智子にとっては、笑ってもいられなかった。霊を知った以上は、霊に寄り添い、守ってもらうしかないのだろうなと、智子さんは、漠然と認識した。
智子は、綾小路先生に、北の方と言われたので、八甲田山のすそ野にある須川温泉に行くことにした。そのあたりは、日本で最初の国立公園に選ばれた場所であった。八甲田山は、陸軍の冬季訓練で、大勢の犠牲者を出したことでも有名であるが、夏の山なら、遭難する心配はないなと、気楽な智子さんであった。
渋谷の交通公社を避け、横浜まで遠出をして、須川温泉3泊を決めてきた。「一人旅ですか?」と係りの人に、不思議そうに聞かれた。今もまだ、女の一人旅は、不審に思われるのかと、独り身の情けなさを感じたが、「研究者ですから」と先生の宿題をしに行くことを前面に出すと、気持ちもただの一人旅のような気にならなくなった。本当のところ、一人ではないなとも思えた。何しろK-30という結構うるさい霊と共に行くのだから、なんだかうれしそうにしているK-30が感じられた。

平成25年1月21日(月)
寒くて布団から出てこない『まる』ちゃん。ご飯タイムなので、引っ張り出しました。布団から出ると、軽く体を前後に伸ばして、運動をします。
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これで智子は、この二週間の内に北の方の山に行って、薬草を何種類か見てくるという宿題が渡されたのだなと気づいた。何がゆっくりよ。これからこの調子で、気づけば忙しいという暮らしになりそうだと予想された。それにしても、この4~5日の環境の変化を思うと、目が回りそうであった。原宿の表参道の通りに面して、おしゃれな喫茶店が何軒も目に付いた。一回くらい一人でゆっくりしてみようと思ったのは、スーパーを辞めて以来ずっと喋りづめだったようで、思えばくらくらするのであった。青山通りに近い表参道を見下ろすガラス張りの喫茶店に入った。また性懲りもなくカフェオレを頼み、窓際の二人席を陣取って、通りを眺めながら、何という人生なのだろうかと、大きなため息をついた。するとガラスが一瞬曇ったようになったので、またK-30が出てきたんだと分かった。あたりを気にしながら、小さな声で、「どうして出てきたの?」と聞くと、いま、出入りの練習をしたのでという。息に乗って外へ出るのが一番智子に負担をかけないことが分かったという。あくびをしたり、ため息をついたりする時の息を利用するということらしい。最初、背中がゾワットしたのは、K-30が汗腺を利用したから私が不快感を感じたそうだ。(練習なんか家へ帰ってからすればいいじゃないの)と声を出さず思ってみた。
「そうなのですが、下の通りに宗像さんが歩いているので、私も観察したくて、もちろんあなたに注意を促すこともありました。どこかに行くつもりですね。この辺りは、若者が多く、新人発掘かもしれません。金曜の午後は、みんな浮かれ気味ですから、1人~2人占い好きを捕まえるつもりなのでしょうか」と、K-30は、幽体を窓ガラスに付けたまま、話は智子の頭に響かせていた。
(私を捜しているわけではないのね)
「そのようですね」
(しばらくここで過ごしている方がいいのでしょう)
「宗像さんは、青山通りの方に向かっていますから、あと30分くらいしてから帰宅してください。渋谷での買い物もなしです。早くアパートに戻りましょう。夕食は、コンビニ弁当で済ませてください」
(いちいち指令しないでくれる。私だって考えるわよ。でも不思議ね。あなたは私で、私はあなたということだけれど、あなたと会話をしていると、考えも違うでしょう。別人を住まわせているようじゃないの。生まれ変わりなら、一人ですべてを決めていくわけで、自分の中で、考えが分裂することもないでしょう)
「そうでもありませんよ。皆さん気づいていないだけで、自己矛盾とか支離滅裂とかと表現せざるを得ないことがおありじゃないですか。それは、自分の精神面の葛藤の結果で、それは誰と戦っているのでしょう。智子さんは、戦う相手を表に引っ張り出したので、自己矛盾のようなことは、起きないでしょう。相手がだれか分かっているからです」
(分かったわ。今、私が喫茶店に入ったのは、頭を休めたいのであって、こんな風に会話する気はないの。あなたのおかげで、この5日間しゃべり続けているわよ。少し考えたいし、就職できたらしいけれど、まず勉強からでしょう。あの勧められた温泉行は、完全に宿題よね。10万円で、山野草を取材してくるのでしょう)
「ぜひ行きましょう。私まだ、秘境の温泉に行ったことがありませんから」
(あたりまえでしょう。私が行ったことがないんだから。息を吸うから体に戻ってね)と智子さんは、大きく息を吸った。ガラス窓はすっきりとなり、智子は、宗像の行方を追った。もうどこにも見えなかったが、宗像は、殺人者なんだと、また嫌なことを思い出させられた。
