平成25年2月6日(水)
階段で私を待っている『まる』。写真を写す時、暗くてよく見えなかったけれど、フラッシュで撮れていた。今日は雪、すこし家の中も寒い。
*
洋子の住まいは、JRの目白の駅の近くにあるという。目白と言えば、かつて、田中角栄の御殿と呼ばれた屋敷があることで有名になったものだが、角栄が亡くなって、その相続税に、屋敷の土地が一部売られたと聞いている。首相を巻き込んだロッキード事件の関係者のほとんどがあの世に去り、時間の流れを感じるが、もちろん洋子が生まれるよりずっと前の話で、智子だって親から聞いたように遠い話である。
洋子のマンションは、田中家とは反対の方向に五分ほど歩いて、駅前の広い通りを渡り、細い路地を入ると奥まったところに建つ八階建てのつくりであった。堀越家は、八階の最上階にあり、角が楕円形になっていた。居間に通されると、半円の窓の部分に二枚大きなステンドグラスがはめ込まれて、教会のようであった。
「姉の好みなのよ」と洋子が言った。「ヨーロッパから持ち込んできて、このステンドグラスがはめ込めるマンションを捜して、ここに落ち着いたの」
「外国に来たみたい」と、智子は、テレビや本でしか知らい外国を思い浮かべていた。
「姉は、ヨーロッパキリスト教の歴史の専門家で、私立の女子大で教授をしている。それとペンネームで売れる小説を書いているのよ。そうでないとこんな都心のマンションは、買えないわよ。ただ、大学には、ペンネームは教えてないし、小説のことも内緒にしているわ。その方が、思い切って奇想天外なことが書けるらしい。話の中には、本当のこともずいぶん書いているらしいけれど、私でもあまり読んだことはないのよ。何しろ長編が多くて、読むのも大変よ」
「すごいお姉さんね。今日は、お留守なの?」
「8時ごろには帰ってきて、一緒にお食事できるでしょう。私は、ここにタダで住まわせてもらっているので、食事の用意を私が引き受けているの。今から、料理をするので、智子さんは、ゆっくりしてね。後で、部屋全部見せてあげるわ。洗面所は、右手の奥にあるので、自由に使ってね」と言って、洋子は、キッチンがある方に消えた。キッチンは、居間からは見えなかった。
居間は、20畳くらいあり、天井が高かった。3メートルくらいあるので、より広く感じた。片側の壁に沿って、3メートルくらいの特注の机がセットされ、その上は、壁全部がスライド式の本棚であった。梯子もついていて、机の上は、パソコン、印刷機、ファックスと電話、小型のテレビなど、そこは仕事場にも見えた。
部屋も真ん中には、オーバルなテーブルと椅子が六脚あり、食事はここでするらしいと思われた。テーブルの真ん中にサボテンが育てられていて、赤い花がいくつも咲いていた。智子が、まとめた資料では見なかった種類であった。とげがない種類だわと思った。
智子は、手を洗いたくなり、洗面所に向かった。扉には、唐草模と何かわからない花が描かれていて、楽しげに見えた。扉を開けると、大きな鏡が智子を映した。思わず身を引きそうになった。鏡の対岸に、手を洗うシンクタンクとこちらにも鏡がついていたが、ヨーロッパ製の縁取りの横に長い鏡であった。どの鏡にも、目をまん丸くして、驚いたという顔をした智子が映った。〈そんなに驚かなくてもいいでしょう〉とK-30がからかってきた。彼女には、見慣れた風景なのだろう。何しろヨーロッパ風なつくりの部屋だったから。そういわれて、それもそうだと智子は、大きく息を吸って、心を落ち着かせた。奥に、トイレですと書かれた札のかかった扉があったので、そこを使うことにして、なにげなく札を裏返すと、使用中となった。なるほどと感心した。きっとここには、お客さんがよく来るのだろうと思われた。トイレの中にも手を洗う設備がついていた。智子は、家を見ているだけで、なぜこんなにドギマギするのだろうと考えてみるに、よその家を訪ねるのが10年ぶりくらいだったので、慣れてないからだと自覚した。
「智子さん大丈夫?」と外から洋子の声が聞こえてきた。返事をする前に、急いで居間に戻って、
「久しぶりによそにお家に伺ったので、なんだか上がってしまって、それにこんな素敵なお部屋を見るのも初めてで、びっくりよ」
「遠慮はいらないわ。この部屋には、よくお客が来るのよ。主に姉の関係者だけれど、トイレに使用中とあったでしょ。10人くらい来たこともあって、トイレでぶつからないようになっているくらいなのよ」
「お姉さんはおいくつなの?」
「40歳くらいかな。私と年が離れているので、姉妹というより、おばさんみたいにおもえるわ」
「私の方が、まだ年上なのね」
「歳のことは考えない方がいいですよ。あの研究室はとくに、年齢が存在しないみたい。綾先生なんか、三十代にしか見えないじゃない。心の持ち方みたいよ。今日は、チーズフォンデュにしたわ。姉が好きだし、智子さんもパンが好きみたいだから」そういわれて、智子は、チーズフォンデュは、見ただけだなと思った。
「姉が帰ってきたわ」と洋子が言った。玄関でそれらしい音がしている。智子は、ものすごく緊張してきた。顔が赤らみ、ドキドキと打つ自分の鼓動が外に流れ出てるのではないかと思える程であった。

平成25年2月5日(火)
『シン』ちゃん、5歳、手のひらサイズから家で育てているのに、なつきが悪い。お客さんが来ると、戸棚の奥に隠れている。爪切りや毛すきが嫌いで、だんだん家族も避ける様になっている。ただ、夜眠る時は、布団の中に入ってきて、人と寝ている。毛色と関係していると思っている。茶系の猫の方が、気質が明るく、人を怖がらない。
*
16世紀辺りから始まった魔女狩りは、ヨーロッパ大陸では、長期間、男性も含めかなりの人々が犠牲になったが、イギリスでは、17世紀には、下火になっていた。そのせいで、K-30の家族も厳しい追及は免れたのだが、漢方医である父親が、噂の素を断ち切ろうと、妻の存在を世間から抹消しようとしたとのことだった。K-30が、サボテンが原因で亡くなったことは、またのちに聞くことになったので、この夜は、これから智子が何を学んだらいいかの話になった。
〈今は、恵美先生の手伝いでサボテンや多肉植物の下調べですが、それと並行してでも薬草の基礎を学んでいくことが大事だと思います。基本の本は、研究室に揃っていますから、順に借りてきてでも読んでいくといいですね〉と、K-30は、自分の事のように語っている。まだそれほど植物に気を入れてない智子は、何のためにそんなに勉強しなくてはならないのだろうと、変な気がした。
〈先生たちが、今新しい酵素をある植物から見つけようとしています。酵素の大部分は、生きているものにありますから、植物や動物について要領よく学ぶ必要があります。しかし、役立つ植物はそうあるものでもなく、また薬草は、地味な花ですし、葉だけで見分けるのは、訓練された目がないと間違うのです。先生のお手伝いは、ただ寫せばいいということではなく、オリジナルに発見もすることが期待されています。智子さんも、基本を学び終わったら、自分の気持ちに合う植物の専門家になってください〉智子は、まだ植物について、一週間も携わっていないのに、K-30の気合の入れ方を知って、彼女が生きていれば成し遂げたかった何かがあるのだろうと察した。まずは、彼女のためにも基本の植物を知って行こうと気を引き締めた。
智子のサボテンに関わる仕事は、土曜日までに終え、次の週は、研究室にある薬草を堀越洋子の指示に従って、一日十鉢の割で写生した。全体像の他、花一輪、雄しべ、雌しべ、一枚の葉、茎などの細部にわたる分解図も書いた。色は、ざっと色鉛筆で塗った。一週間それだけが仕事であったが、休み時間には、図鑑を読んだ。洋子がよく指導してくれたので、無駄な植物に関わることがなかった。
綾先生や恵美先生も一日中研究室にいて、パソコンと顕微鏡につききりの日もあった。たまに、綾先生が、智子の様子を見に来て、「良い方向で学んでいる」と、安心したように言っていくこともあった。恵美先生は、智子がまとめたサボテンの資料で、いくつか間違いを見つけ、そのたびに智子を呼んで、正しい答えを教えていた。そうして何度もサボテンの資料を見ることになり、それは後に、大きな力になっていくのであった。
洋子が食事に誘ってくれた日が来た。智子が洋子の家に遊びに行くことは、研究室のみんなが知っているのだった。綾先生は、洋子が帰る時、「お姉さんによろしくと伝えてね。また携帯に電話しますともね」と、伝言していた。この研究室は、一つの細胞のようだと智子は思った。行動は知られ、場合によっては、精神面もすっかり分かり合っているかのようで、知らないのは、智子一人のようだった。

平成25年2月4日(月) 
*
アパートに帰ると、相変わらず近所のスーパーで買ったお総菜で、夕食を済ませた。今日はテレビはつけず、植物図鑑を開いた。そして、K-30に語りかけた。
〈あなたが、サボテンに詳しいと、恵美先生は言っているけれど、300年前から、イギリスのように寒いところに、サボテンはあったの?〉しばらく頭には、何も響いてこなかった。出かけているのかしら、と智子が考えだした頃、
〈すみません。ちょっと別のことを考えていて、もう一度お願いします〉というK-30の響きがする。
〈あなたがサボテンに特に詳しいというようなことを聞いたので、恵美先生なんか、あなたを頼っているようだわよ〉
〈エーと、イギリスにサボテンが渡来したのは、500年以上前ですから、私が生きていた時代には、結構ふつうにみられました。私が得意と言うのは、確かにサボテンも観察していましたが、私は、サボテンの毒で亡くなったものですから、そう言われたりするのです〉
〈えええーー・サボテンってそんなに強い毒があるの?というか、あなたはサボテンが原因で?毒殺でもされたの?〉
〈そうかもしれません。母が、植物から、薬を作っていることに、当局が気付いて、魔女狩りに遭いそうになったのです。それを父が、母を守るために、母を死んだことにするため、仮死状態になる薬草を使い、当局の追及から逃れたのです。それ以来母は、お城から一歩も出られなくなり、何年かして、気がふれて、城の屋上から落ちて亡くなったのです。〉
〈そんなすごい話、私にしていいの?〉
〈いいのではないでしょうか。智子さんの精神の部分には、私の血筋が流れているのですから、知っているに越したことはないでしょう。智子さんもとても劇的な人生を送っていることになるでしょう〉
〈魔女狩りね。あれはいつまであったのかしら