平成25年3月7日(木)   

 
猫はよくなめあっている。舐めてほしい時は、頭を相手の猫の口の下に出すので、ごめんなさいという姿勢になる。相手がやる気が起きない時は、頭を殴られている。

                     *

 母は、八時ごろ帰って行った。表通りに出ると、目白の駅は、目の前にあったので、駅までは送らなかった。その帰りに、洋子の家によることにして、電話を入れた。「お姉さんいらっしゃる?」と聞くと、土曜日なので在宅しているとのことだった。
「姉に用なの?」と洋子は不審そうに聞いた。
「お姉さんにも一緒に考えていただこうかなと思って、お寄りしてもいいかしら」
「構わないわよ。今テレビを見ているだけだから」
 智子は、洋子の部屋を訪ねることをいつも控えていた。洋子の姉は、別のマンションを仕事場として持っていたが、このマンションでの執筆活動を好んでいるのを知っていたので邪魔してはいけないと思い、近くにいながら、自分から訪ねることはなかった。パーティーに呼ばれた時は、喜んで仲間に入れてもらっていた。姉のアデール華子の友人は、イギリスやスイスから観光旅行に来た人たちが多くて、会話は、英語が使われたが、智子もK-30のおかげで、聞くことができたので、彼らとも仲良くなっていった。それでアデール華子とも洋子以上に気が合うのだった。何しろアラフォー世代で、感覚が同じであったのだ。
 母から聞いた、弟の結婚相手について、少し調べた方がいいらしいということを伝え、今日聞いたばかりなので、あまり時間がないけれど明日、弟に連絡して、彼の結婚に対する心構えを聞いてみようと思っているんだと伝えた。 

              平成25年3月5日(火)   

 
今日は、〈啓蟄〉春らしい表情の『よっちゃん』2歳くらい・6.7kg
 昨日、昼ごろ、大きなビルの廃屋に住んでいる野良に餌をやりに行った。一度この近隣の人に、『猫に餌をやらないでください』と言われたので、こっそり誰もいないのを確かめて、ちょっと覗いてみた。前は、毎日のように訪ねていたが、今回は、一か月ぶり、どう育っているのか知るのも怖いのだが、カリカリくらいおいていこうと思った。
 新しく見る四匹の真黒な子猫たちが、段ボールの箱で昼寝をしていて、私が近づいたら逃げたのに、一匹動かない子猫がいた。よく見ると、乾いた目ヤニで両目が閉じられていた。たまたま温かいジャスミンティを持っていたので、ハンカチをジャスミンティで濡らして目を開けてやった。野良猫がかかる慢性の風邪をひいていて、他の猫も何匹かくしゃみをしていた。ほんのちょっとした親切は、返って不幸にもなると思いながら、黒缶を開け、カリカリを置いて帰った。本当は、これらの猫を助けられれば、 いいのだけれど、私自身が不整脈を持っていて、最早自分の飼い猫を寿命まで見届けることぐらいしかできないのだ。家の猫たちも野良時代を生き抜いてきた猫ばかり。今では、安心した表情でゆったり暮らしている。野良時代を思うとよく生きてきたねと思ってしまう。いつも彼らの寿命までは元気でいたいと思っている。 

                    *

 智子の部屋には、良い香りのするハーブが置いてあるので、まずその香りに気づく。
「いい香りなのね。広い部屋。こんないい暮らしをしていたの?」と母は、驚いたように言った。そして窓の方に行って、「景色はそれほどでもないのね。前のビルしか見えないのね。でも部屋は落ち着くわ」
「お母さん今日は、少しゆっくりできるの?そうなら、夕食は、ここで食べれば、私、結構一人でも料理しているから、すぐ何かを作れるのよ」と智子は聞いた。
「じゃ、お父さんに電話して、智子のところでごちそうになるから、お父さんは適当に夕食食べてと言っておくわ。お父さんは、今日智子に会うことを知っているから、一人で何か店屋物かお寿司でもとるでしょう」母は、携帯電話は使えるらしく、そのようなことを父に伝えていた。
 夕食は、洋子に分けてもらった和食の数々が何種類かあるので、すぐ料理にかかる必要はなく、まず、母の問題を聞かなくてはと、紅茶と、ハーブの入ったクッキーを用意して、食卓を兼ねたテーブルの方に母を呼んで、お茶を飲むよう勧めた。ハーブティなので、気が休まるはずだった。
「お母さんの相談はなに?」と智子は、すぐ問題に切り込んだ。
「半年前、智子が来て、すこし話題になった礼一の結婚の事なのよ。礼一は、高校の同窓生と付き合っているらしいという話が出たでしょう。その後、話が具体的になってきて、向こうの両親とも会って、結婚の話が進みだしたのよ。それが三ヶ月くらい前で、その時から、お父さんが、その女性というか、書道家という父親が気に食わないと言いだしてね、いま、礼一と口も利かないというか、礼一も家に帰ってきてないのよ。お父さんが、反対する理由が、〈気に食わない〉の一点張りで、具体的ではないのだけれど、お母さんも、なんだかその女の子が怖いのよ。3回くらいしか会ってないんだけれど、礼一が好きだから結婚したいということではなく、家の『天』という家柄に興味を持っているみたいなのよね。何もない家なのに、変でしょう」
「その子は何という名なの?」
「草笛ひかり、と言って、今、28歳で美人だわね。礼一は、そんな美人の子が近づいてきたので、始めは驚いたらしいのよ。こんなにきれいな子がなぜと思ったというのだから、私が、変だと思うのもあっているでしょう。それでも、同じ会社だからだんだん礼一も慣れてきて、自分の立場もしっかりして来たから、結婚できると思うようになったらしいのよ。草笛ひかりさんの方が結婚には熱心だったみたい。草笛家が、礼一を認めてくれているのに、どうしてうちは反対なのかと、怒ってしまって、それ以来話はストップしていて、礼一は、草笛家にいるらしいのよ。どうしたらいいのかしらね」と、母は打つ手がないと憔悴していた。
「お父さんは、気にくわないと言っているのね。それ以上のことはなくて、きっと勘みたいなものが言わせているのよ。お父さんに、霊力は無くても、おじいさんが霊能者だったのだから、まったく素人の勘ではないはずよ。私の時は、反対しなかったけれど、神主の家同士とは知っていたのよね。その頃の私は、ボーとしていたから、彼の家の役に立つくらいは、と思っていたのかしら。
 『天』という苗字に惹かれた人を知っているけれど、彼らは、霊力を利用して、自分たちの金儲けに使うのよ。深入りすると殺されるわね。私が、初めて自分の霊にあった頃、宗像幸代という占い師に引き込まれそうになり、その時、研究所の先生たちの霊たちが彼女に引き込まれないよう守ってくれたの。このマンションもそういう結果見つけてくれて、『数理学研究所』とあった表札は、守りの鍵なのよ。このマンションの部屋の持ち主は、大学の研究室だから、間違ってはいないけれど、私は、この部屋を、たった7万円で借りているの。原宿にある研究所とこことの往復だけで2年以上過ぎている。この部屋では、図版とパソコンで植物について学んでいるので、起きている時間のほとんどを植物に費やしているという生活だわ」
「本当に、植物の本が多いのね。智子は、この生活が合っているのね。見違えるほど元気になっているわよ。そういえば、礼一は、すこし、顔色が悪かったわね。そのことも気になっているのよ。いちど礼一と会ってみてくれない?携帯の電話番号は変えてないみたいだから、礼一の本当の気持ちを聞いてくれない?」と母は、すがるように言っている。
「分かったわ。明日、日曜日だから連絡してみる。お母さんは、私と連絡取ったことを礼一に言わないでね。それよりお母さんは、どこか具合が悪いところでもある の?顔色が悪いみたい」
「どこが悪いというわけでもないのよ。お父さんにも言われて、MRI検査も受けたけれど、脳こうそくの気配もないし、癌検査も陰性だし、今では、加齢ということしか言われない。お父さんもあんまり元気ではないわよ。お互い加齢で済ませているけれど、なんだかヤル気が起きないのよ。このまま礼一を摂られそうで気が気じゃなくて、智子なら何か考えがあるかしらと、忙しいのに悪いわね」
「うちの苗字に興味を持ったとなると、問題ありね。礼一に会う前に、下調べはしておきます。この前はあまり話さなかったけれど、この部屋まで来た人は、霊力も理解できる段階だから、話すけれど、私の霊は、300年前のイギリスの30歳で亡くなった女性で、漢方医の家に育った婦人で植物の研究者だったそうなのよ。だから私の植物学の習得の早さは、彼女のおかげでもあるの。彼女は、私の中で、ほとんど眠っているらしいけれど宿主が危険だと感じると、仲間の霊と相談して、危険な道から外れるよう導いてくれるの。今の職業の先生たちにはやはり漢方学のエキスパートの霊がついていて、一般の人では追い付けない技術や分析力を持っている。私の霊もその力が強いので、今に私が、世の中に役立つ仕事をすると先生たちも思っているのよ。自分では信じられないことだけれど、確かに、この二年で、学んだことは多いわ。イギリス人だという霊のおかげか、英語だって聞くことはできるのよ。話すには、単語力が足りないけれど、信じがたいでしょう。だけど、この力は、表立っては出せない。目立ってはいけないので、家にも秘密になっていたの。お父さんも案外霊力はあるのかもしれないけれど、霊自身が表に出ないのでしょう。お父さんの仕事が、霊と関係ないからかもしれない。私の霊が言うには、人は全員霊を持って生まれるそうなの。特に命名の時に入り込むそうなのよ。だけど、霊に遭わずに一生をまっとうする人が大部分で、私みたいに霊と話す人はもっと少ないそうなの。こんな機会が持てたのも、『天』とい苗字のせいらしいわ。神主の家系よね。お父さんが黙っていたので、全然知らなかったけれど、私の霊が教えてくれたのよ。礼一は、まだ霊と話してないらしいけれど、草笛ひかりさんはどうなのかしら。霊に聞くしかないわね。彼らは、情報網を張り巡らせて、助け合っているわよ。宿主を大事にしているのよ」
「智子から霊の話を聞いてから、お母さんだって、これまでに不思議だと思う感じは何回かあったわ。智子が生まれる前に見た天使の夢の話は、この間したけれど、礼一の時も天使の夢を見たような気がする。おじいさんが亡くなる時も昼間だったのに、家族がそろっていたわね。あれは、前もって知らせがあったように感じたものよ。だから智子の話も本当の事と理解できるのよ。礼一が危ないことってありそう?」
「聞くほどにありそうね。上手に手ほどきしないと、礼一が壊されることもあるのよ。ひかりという名が意味ありげだし、書家のお父さんって、そっちも不穏だわね。だいたいわかったから、これから夕食にしましょう」
智子は、洋子の料理の他に、汁ものと味噌漬けのさわらを焼いて母を慰めた。洋子の料理は、日本古来の香草が主なので、母の口も明るくなり、洋子の料理を珍しがった。彼らがあの立派なマンションに住んでいることは、まだ母には話さなかった。
 
葉ボタンもそろそろ終わりの頃
                       
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           平成25年3月4日(月) 

 
『よっちゃん』猫がこの姿で椅子に寄り掛かるのは珍しい。『タロウ』もこの姿を見せることがある。

                     *

 研究室では、着々と成果が出ていた。二年前、智子が、社員になった頃、サボテン公園の火災で研究が遅れていた恵美先生のサボテンからの抽出成分によるアレルギーへの効果は、花粉症などを軽減してくれそうだと、製薬会社が嬉しそうに報告してきた。ここの研究室は、成分の分析が主なので、それ以上、特に製品化に関わることはないけれど、できればすぐにでも役立つ成分を持った植物を見つけたいと研究所の人は誰もが思っていた。
 洋子は、一年前から、日本古来から使われている香草を使うにあたって、成分を壊さない料理を東京の広報誌に紹介し始めていた。彼女は、それらの植物をよく知った上での料理の紹介で、なぜそれらが体に良いかという点を解析しているので、他の料理の先生とは一味違った読み物になっていた。綾先生は、洋子がそのまま料理に詳しくなるよう勧めていた。洋子は、料理を科学するように感じて作るので、ただの料理の先生とは思わずにすんでいて、楽しそうに、梅干しなどに取り組んでいた。綾先生の研究は、よく分からなかった。一年のほとんどを大学の研究室で過ごしていて、大学のグループと大きな研究をしているようであった。
 智子は、恵美先生と洋子を手助けしながら、自分の植物を決めかねていた。K-30と話したことで、出来たら彼女の力も借りて、人の役に立つ成分を見つけ出したいと思っていた。
 そんな折の土曜日、母から携帯に電話が入った。渋谷のどこかで会いたいという。切羽詰まったような声であった。それでいておびえたように小さなささやき声である。智子は、母を自分のマンションに呼んで、そこで話を聞く方がいいと思った。恵美先生の原稿の下書きは、一通り終わり、月曜日の仕事の打ち合わせを終えれば家に帰れるので、母に、渋谷の大きな果物店の喫茶店に3時に来るように言った。
「恵美先生、今日は、この打ち合わせが済んだら帰らせてもらっていいですか?」と智子は聞いた。
「何かあったの?智子さんがそういうことを頼むのって初めてでしょう。よかったら話してみて。」と恵美先生は鋭い目を抜けてきた。
「母が、なにかおびえたように小さな声で電話してきたのです。今までそういうことがないので、よくないことに違いないと思います。初めは、渋谷の果物屋さんの喫茶店で会いますが、込み入った話になりそうだったら、自分のマンションに連れて行きたいのですが、よくないでしょうか」
「お母さんにまだマンションを見せてなかったの?」
「母が私の仕事を理解するには時間がかかると思ったので、時期待ちだったのですが、あれから二年たって、また、一度霊の話もしてますから、前よりは、私の立場の理解はできますから、いいチャンスかと思います」
「込み入った話は、外でしない方がいいでしょう。渋谷・原宿は宗像女史の活動範囲だから、油断禁物よ。何かあったら、私に連絡頂戴ね。お母様を大切にね」

 渋谷の喫茶店では、母が時間よりずっと早く来て待っていたらしい。店の果物をいくつか買っていた。
「喫茶店の方に入っていたらよかったのに。ここは、高級喫茶だから、お金に余裕がないと利用しないから、案外すいているのだけれど、。。」と言いながら二階の喫茶店を除くと、えらく混んでいて、こんな所で憔悴したように見える母と話すわけにはいかないと思えた。
 私のマンションに行きましょう。と言って智子はタクシーを拾った。母は、立っているのがやっとと言えるくらい憔悴していた。JR線を利用すれば6駅だけれどタクシーでは、8000円くらいかかった。目白駅の前で降りて、少し歩くと言って横断歩道を渡った。目の前に、堀越姉妹が住むマンションがでんと建っている。オーバルな形が、目を引きさすがの母も、「立派なマンションね」と感想を漏らした。智子は、そういわれて嬉しかったし、このマンションのおかげで、私のマンションが目立たなくて助かっているんだと改めて実感した。そのまま立派なマンションの裏に回り、灰色の見るからに古い四階建てのマンションに母を誘った。「ずいぶん古いのね」と母は、誰でも感じることを言った。
 智子の扉には、[数理学研究所]の表札があって、母は、目を白黒させていた。そしてその標識をなでていた。

     
    近くの農家の庭で[白梅]が満開

                             
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