Coffee and Cigarettes -38ページ目

Coffee and Cigarettes

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子規庵に行って来た。
墨汁一滴、病状六尺に描かれ、想像していた世界と全く同じでなんだか気持ちが良い思いだった。
子規にとってそれが見る事のできる全てだった、6畳と8畳の畳と庭の草花を見て考え深い気持ちに浸った。
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僕は今凄い出会いをしている。
それは宮本常一という人との出会いだ。

「忘れられた日本人」に続いて、著者が晩年に話したものを書籍化した「塩の道」「日本人の食べもの」「暮らしの形と美」を読んだ。
面白くて面白くて・・今彼にぞっこんで、とりあえず出版されている本は読破してみようと思っている。

まずは「塩の道」
塩を一日の中で摂取しない事はないんじゃないか?
体にとって重要且つ身近で日常に溶け込んでいるもの。そういうものこそじっくりと人は考えるべきなのに、おろそかにしている。
その様に思い、反省を与えてくれた。

まず昔は塩を栄養素というような価値として扱っていた事実に驚かされる。現代の日常生活の中では調味料として「味付ける」というように塩を扱っているが、塩は人間にとって非常に重要な栄養素であり、そのように昔の人は考えていた。
そうすると、何処に住んでいようが~山の中だろうが、海辺だろうが~塩を得る為、与える為に昔の人は色々な知恵を絞った。

得る、与える方法は塩の供給量に関係をしていたのが面白い。
塩の生産性が低い時代には、塩を買いに行っていたが、塩の生産性が高くなると塩を売り歩くようになった。
そうすると塩だけを売りに行くのではなく、魚も一緒に売るようになる。そうすると腐らせない知恵が産まれる。干し物というのもその1つで、昔は非常に塩っけの強い干し物で、それを買った山の人は3日くらいに分けて1匹の干し魚を食す。そういう事実からも受け取れるように塩というのが「大事な栄養素」という考えが強かったんだなあと伺える。

そういう歴史の上に、やっぱり魚は生で食べるのが一番美味しいという事になってくると、生のままで腐らせない知恵が生まれ、それが今の押し寿司なんかに繋がっていたりする。

それ以外にも塩の運び方、塩の道の選び方、塩を運ぶ動物・・・と色々な視点で塩というものの歴史がどのようなものだったかが書かれている。
今では簡単に買える塩というものには、人間の知恵がふんだんに詰め込まれているんだと実感できた。
「どういう自分でありたいのか?」
こういう自問自答を最近したかなあ、とあるコラムを読んで思った。

あえて自問自答せずに行動していたような気がするけど、おそらく「どういう自分でありたいか?」というのは少しながら考えていて行動をしていたんだと思う。

例えば、本を読むことや、芸術に触れることや、こうやって日記を書くことや、自分の行動の内には、「どういう自分でありたいか?」が潜んでいるように思う。


「この人は自分の似合う服を知っているなあ~」といつ会っても感心してしまう友人が居る。
彼はやっぱり、オシャレについて自問自答を繰り返してきたんだと思う。そしてゴールは無いから、まだ考え続けているんだと思う。
こういう人が居たらジャンルに問わず非常に興味深い素敵な人だと思う。

最近出遭った人にも、こういう人が居て、彼の場合は映像だった。
ただ知識を詰め込んでいるんじゃなくて、自分なりの考えがしっかりあるという事が、自問自答を繰り返してきた人が与える印象として共通している。

「どういう自分でありたいのか?」
それを突き詰め、考え、行動していたら、着実にありたい自分に近づいていくんだろう。
柳田國男の「山の人生」という本の序文に「山に埋もれたる人生あること」という短い文章がある。


この文章の中で2つの事件が記されている。
1つは子供2人を男が鉞で斬殺した事件。
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女房はとっくに死んでしまい、男手ひとつで13になる男の子と女の子を育てていた。炭を売り歩いていたが、この日も全く売れず一合の米も手に入らなかった。
帰ってきて餓えきった2人の子を見るのが辛く、小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。目がさめると小屋の口いっぱいに夕日がさしていた。二人の子供がその日当りのところにしゃがんで、
しきりに何かしているので傍へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧を磨いでいた。「阿爺(おとう)、これでわしたちを殺してくれ」といったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落してしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢に入れられた。

この親爺がもう60近くなってから、特赦を受けて世の中へ出てきた。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分からなくなってしまった。私は仔細あってただ一度、この一件書類を読んで見たことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕み朽ちつつあるであろう。
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もう1つも同じような事件で、夫と赤ん坊と自殺したが結局死ぬことが自分ひとりだけ出来なく、1人に生きながらえた女性が居たという話だ。


この2つを取り上げて柳田國男はこう言っている。
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我々が空想で描いて見る世界よりも、隠れた現実の方が遙かに物深い。
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この言葉と今日のニュースでみた
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一昨年よりも昨年は500人程多く、12年連続で3万人を越す自殺者が出た。
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という内容とがリンクして、何かグッサリと心を突かれた思いがした。


僕が今肌で感じている日常は、大きな社会の中の一部の社会であって、ウソでもなんでもないけど、そこだけを見ていて現代社会を理解しようとしたら、それはウソなんだと思う。そういう自分が経験している社会と、他の絶対数の多い社会とを比べてみたりする事が大事なんだろうなあ。
バンクーバーオリンピックがとうとう終わってしまった。
締めくくりは今日、日本時間の午前中にライブ中継していたアイスホッケー男子決勝だった。カナダ対アメリカの試合は延長戦に持ち込んだ凄まじい試合で、締めくくりの試合として申し分ない見ごたえのあるものだった。


今回面白く、また魅力的だったのは
・スノーボード男子ハーフパイプのショーン・ホワイトの2回目。この時は既に金確定だったんだけど、自身が編み出した「ダブルマックツイスト」を披露して最高得点を叩き出した。
・キムヨナのフィギュア。妖精のようだった。群を抜いて素晴らしいと思った。
・女子カーリング。地味なスポーツと思いきや非常に酷で、奥深いスポーツだと実感。
・スノーボード男子スノーボードクロス。友人が「あれテレビゲームみたい」という表現が面白く心に残っているが、決勝のセス・ウェスコットの滑り方を見ると頭脳戦だなあとも思うけど、結局なんだか解らない運頼りな競技で面白かった。
柳田國男「遠野物語」を読んでいる。

岩手県の遠野郷に伝わる民話を聞き綴ったもので、日本の民俗学の礎ともなった作品と呼ばれているようだ。


遠野郷は山に囲まれた盆地で、出てくる民話もその立地条件から山の神様の事や、山で起きた怪奇な出来事、はたまたその町で起きた事件などが書かれている。

天狗や河童や座敷童子などの妖怪などが話の中で出てくるが、今の時代に生きているとどれもこれも実感の湧かない「おとぎ話」の様に最初は感じていたが、読み進むに連れて、その気持ちは薄らいでいく。どういうことかというと「昔はそういう妖怪や山の神様は居たんだな」という思いになってくるのだ。


この話に出てくる妖怪や神様は都市化が進むに連れて居場所を失い、今では存在しなくなったのか?それとも「信じる」という事が「見る」という事と密接につながっていて、そういう話を信じなくなった現代人は単純に見えなくなった、という事なのか?本気で考えている。


遠野郷の人達の凄まじい創造力、その創造力から生じる「恐れ」や「信じる力」を感じて、情報過多という事がどれだけ人の創造力を失わせる事なのか。便利という社会と創造力の欠落ってのが、きっと表裏一体にあるものなんだろうと強く思えた。
『日本の歴史をよみなおす』の後半にあたる本。
この続編でも「はじめに」から驚かされた。

百姓の人の仕事って何でしょう?
ここじっくり考えて回答を導き出して欲しい。


おおよその回答は「農業」じゃないかと思う。
だって教科書でもそう習っていたしね。

これがそもそも「違ってるよ」というのが「はじめに」から書かれている。


だから何?百姓=農民じゃなかったら何なの?と思うかもしれない。
これ、結構色々な固定観念を覆される、凄く大きな事実なんだと気付かされる。


山奥に存在する集落は、その立地から田畑を持つことが出来ないが為に貧困であっ
たというのが定説だったらしいが、実はそこでは鉄が摂れたり、山菜が摂れたり
していて、実はとても裕福であったとか。

海川沿いなども同じことが言えて、貿易での収益やその昔は海川を主とした交通
網というのが沢山あった為、そこを通る場合に通行料を徴収するなどで富を得て
いたとか。

だから、日本の農民ではない人(=米を作れない人)は貧困でそれはそれは厳し
い状況が強いられていたという、とても悲観的な状況を歴史家は考えていたが、
いや~そんな事無くて、ちゃんと金儲けして美味しい思いもちゃんとしていたよ、
という明るい昔を思い浮かべることがこの説によって出来る。


ちゃんと昔の日本をしっかり考え描いた事はあまりないけど、心の隅で「現代が
一番裕福な時代、幸せな時に僕らは産まれた」とか考えていたような気がするけ
ど、いやいや実はとても大変な時に生きていて、悠長な事を言ってらんない時期
なんじゃないの!?って思う。



ちょっと長くなるが続けて書くと、この時代(中世)の仏教と政治と人民との関
わり方がとても興味深い、だんだんと非人と呼ばれる人や女性などが穢多(穢れ
多い)と差別され始めると、その人たちを救済する教えというのが人気を得てく
る。

その教えが禅宗や時宗、真宗などで、そのお坊さんが政治力を背景に色々な特権
を得てお金を稼いでいき、それを元手に寺の増築などを行っていくという流れが
あったようだ。今のお寺やお坊さんの印象とは掛け離れている。


あとがきで網野善彦氏が書いているが、疑問に感じた事を疑ってみる力っていう
のが大事であるというような事が書いてあるけど、本当にこれから、こういう力
が大事になってくるんだと思う。
網野義彦の『日本の歴史をよみなおす』という本を今読んでいる。

この本の「はじめに」に書かれている内容から驚いちゃうんだけど、
今僕らが「常識」と考えている社会は14世紀ぐらいからの歴史の上に
成り立っていて、それ以降の社会体系は、驚くほど異なっている。
という事が書かれている。

ここでいう社会とはこの本では
・文字のこと
・貨幣のこと
・差別のこと
だったりを切り口に書かれている。


僕はずっと社会は「更新」され続けられていき、徐々によくなって
いったり悪くなったりしては軌道修正されたりするものだと勝手に
思い込んでいたけど、全然違う事がわかった。


面白いのは社会の変わり方が思いも寄らない視点で書かれている。

例えば中世の文字について以下の様な視点で語っている。
・「口頭で使われる文字の歴史」と「文章で使われる文字の歴史」
とでは違うということ。

・片仮名は話言葉を文字にする場合に用いられ、平仮名は女文字と
言われ、女性が主に使用するのが常だった。男性は漢字を使っていた。

こんな風に文字というものを考えたことがなかった。
内容も今の僕らには直ぐに理解しようにも難しい内容ばかりだ。

こういうの読むと考えさせられるのは今の世の中の事だ。
例えば文字の事で言うのだったら、
・今の日本語の使われ方への疑問
・日本の中で使われる英語(外来語)に対して悠長でいる態度
・日本語が更新されていない現実
※例えばインターネットの用語だったり。

今後日本語はどうなってしまうんだろう・・・?
宮本常一の「忘れられた日本人」を読んだ。
民俗学っていう学問の存在と、その面白さに感動している。

明治、大正、昭和初期を生きた人たちがどのように生きて
きたかを色々な視点で描いている。

本の内容はフィールドワーク(実地調査)を行う中で出遭った
人との会話を主に展開する。

宮本常一が接する人は地位の高い人でもなく、一貫して
「普通の人」と会って、「普通のおしゃべり」をしている。
読んでいて都度(本当に都度)思うのは、
「こんな人が生きていたのか!」
「こんな時代があったのか!」
と単位で延べればキリがないけど、とにかく新しい世界だらけ
で驚きと興奮につつまれた気持ちだった。

簡単に書いたけど、「普通の人」に会うと言っても、
それはそれは物凄いバイタリティに溢れた行動の上にあっての
事だし、「普通のおしゃべり」と言っても、その頃はテレビや
ラジオも無いので「標準語」という概念がそもそもなく
「その国の使われている言葉」でやり取りしなくちゃ、
全く意思が通じなくコミュニケーションが成り立たない訳で
凄い努力の上でのことだと思う。
また宮本常一自身が百姓出の人で、自身でも自負していた
けど、とにかく直ぐに相手と打ち解ける能力があったようで、
フィールドワーク(実地調査)に非常に長けていたんだと伺える。


内容は例えば西日本と東日本の傾向の違いがあるという話があったりする。
生活と文化を村の全体が記憶するのが西日本であれば、
東日本では家単位で記憶するという指摘などが挙げられる。
それは老人と呼ばれる人、隠居した人がどんな経緯で
成り立ち、またどのような生活を送っているかが解りやすく
描かれていて、「なるほど、だからかあ」と関心してしまう。


また時代として、文字を読めない人というのが多く存在
しており、文字を読める人とそうでない人との大きな
精神というか、物事の捉え方の違いを指摘していて
その内容が物凄く面白かったりする。
これ本当に凄い内容が書かれている。



あ~止まらない。
まだまだ書きたい事あるけど、とりあえず凄い書籍に出合った
という気持ちをここに留めて置きたい。