者の名前を、――ことにトゥルゲネフの名前を覚えるようになった。それらの小品集はどこへ行ったか、今はもう本屋でも見かけたことはない。しかし僕は同氏の文章にいまだに愛惜を感じている。ことに東京の空を罩こめる「鳶色とびいろの靄もや」などという言葉に。
三七 日本海海戦
僕らは皆日本海海戦の勝敗を日本の一大事と信じていた。が、「今日晴朗なれども浪なみ高し」の号外は出ても、勝敗は容易にわからなかった。するとある日の午飯ひるめしの時間に僕の組の先生が一人、号外を持って教室へかけこみ、「おい、みんな喜べ。大勝利だぞ」と声をかけた。この時の僕らの感激は確かにまた国民的だったのであろう。外国人 恋人僕は中学を卒業しない前に国木田独歩の作品を読み、なんでも「電報」とかいう短篇にやはりこういう感激を描いてあるのを発見した。
「皇国の興廃この一挙にあり」云々うんぬんの信号を掲げたということはおそらくはいかなる戦争文学よりもいっそう詩的な出来事だったであろう。しかし僕は十年ののち、海軍機関学校の理髪師に頭を刈ってもらいながら、彼もまた日露の戦役に「朝日」の水兵だった関係上、日本海海戦の話をした。すると彼はにこりともせず、きわめてむぞうさにこう言うのだった。
「なに、あの信号は始終でしたよ。それは号外にも出ていたのは日本海海戦の時だけですが」
三八 柔術
僕は中学で柔術を習った。それからまた浜町河岸はまちょうがしの大竹という道場へもやはり寒稽古かんげいこなどに通ったものである。中学で習った柔術は何流だったか覚えていない。が、大竹の柔術は確か天真揚心流だった。僕は中学の仕合いへ出た時、相手の稽古着へ手をかけるが早いか、たちま