僕の家うちには祖父の代からお狸様たぬきさまというものを祀まつっていた。それは赤い布団にのった一対の狸の土偶でくだった。僕はこのお狸様にも何か恐怖を感じていた。お狸様を祀ることはどういう因縁によったものか、父や母さえも知らないらしい。しかしいまだに僕の家には薄暗い納戸なんどの隅すみの棚たなにお狸様の宮を設け、夜は必ずその宮の前に小さい蝋燭ろうそくをともしている。
八 蘭
僕は時々狭い庭を歩き、父の真似まねをして雑草を抜いた。実際庭は水場だけにいろいろの草を生じやすかった。僕はある時冬青もちの木の下に細い一本の草を見つけ、早速それを抜きすててしまった。僕の所業を知った父は「せっかくの蘭らんを抜かれた」と何度も母にこぼしていた。が、格別、そのために叱しかられたという記憶は持っていない。蘭はどこでも石の間に特に一、二茎けい植えたものだった。
九 夢中遊行
僕はそのころも今のように体からだの弱い子供だった。ことに便秘べんぴしさえすれば、必ずひきつける子供だった。僕の記憶に残っているのは僕が最後にひきつけた九歳の時のことである。僕は熱もあったから、床の中に横たわったまま、伯母おばの髪を結うのを眺ながめていた。そのうちにいつかひきつけたとみえ、寂しい海辺うみべを歩いていた。そのまた海辺には人間よりも化け物に近い女が一人、腰巻き一つになったなり、身投げをするために合掌していた。それは「妙々車みょうみょうぐるま」という草双紙くさぞうしの中の插画さしえだったらしい。この夢うつつの中の景色だけはいまだにはっきりと覚えている。正気になった時のことは覚えていない。