40年以上前、大学で専攻していたのは機械設計。
ところが畑違いの会社に入ってから、理系の知識はどこかへ飛んでいってしまった。
一方で、文系だった一回り年上の先輩が、学びなおしで数学や物理を勉強しているという。
理系だった私がいま歴史や寺社、仏像、哲学などに惹かれるのは、「今まで無縁だった世界」への憧れなのかもしれない。
歴史に興味を持ち始めたのは、30年以上前のドイツ駐在がきっかけだ。出張が多く、移動時間やホテルの夜など一人の時間が増えて読書を始めた。
月に10冊以上読む中で出会ったのが、梅原猛『隠された十字架』。 法隆寺夢殿の秘仏・救世観音に触れ、「法隆寺は聖徳太子の怨霊を鎮めるための寺院ではないか」という仮説を示していた。
“歴史は勝者によって書かれる”と聞いたことがあった。
学校で習った歴史と本当の歴史は違うのかもしれない——そう思った時から、歴史に興味をもちはじめた。
やがて茶道を始め、岡倉天心の『茶の本』も読んでみた。 天心が東大で師事したのが哲学を教えていたフェノロサ。 廃仏毀釈の時代に日本美術の価値を訴え、天心とともに救世観音を世に開いている。
オープンカレッジで歴史、仏教美術、哲学を学び直し、茶道を再開すると、別々だった点が一本の線でつながっていく感覚がある。
授業は、講師陣も多彩でどれも驚くほど面白く私より年長の受講生は、皆真剣に授業をうけている。
そして、初めてならう哲学。 テーマは「近代哲学の祖」カント。
『純粋理性批判』で認識の仕組みを学んでいるのだが——これが難しい。
「認識が対象に依存するのではなく、対象が認識に依存する。」
「コペルニクス的転回。」
丁寧に説明して頂いているのだが・・・理解力が乏しい私には ……
わかったような、わからないような。 いやたぶんわかってない。
それにしても、60歳を過ぎて授業で指されるとは思わなかった。
哲学は深い。わたしには深すぎるかもしれない。
でも、その”判らなさ”がなぜか面白い。


