昨日は「北鎌倉散策と老年懇談会」 | ぐ~たら爺の奮闘記(^^Ameba版

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表題「老年懇談会」は注意指摘指導修正されるかも??^^

以前より、旧同僚先輩よりお誘い頂いた**会へ参加させて頂きました。
現地(北鎌倉)集合、多少早めに着いたのですが、電車の便からして非常に少ない降車する方々、ま~天気も快晴で良かったのですが、予報は曇りでしたので一安心

さて、北鎌倉の案内看板です、しかし見ずらいですね~~申し訳ない^^
そんな場合にはクリックしてください(開かない時は、コピー&ペースト)
http://mapandnews-japan.com/kanagawa/kamakura/index12.html
http://www.kamakura-info.jp/where/2
https://www.google.com/maps/d/u/0/viewer?mid=1ZXEWj-C94IUfpTMUnirSaMj7ZYg&hl=ja&ll=35.33208319852728%2C139.550522&z=16

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丁度14時に旧同僚から声を掛けて頂き、全員集合されていました。数名はすれ違った方も・・・・
早速、寺院の散策です。最初は浄智寺、平日です来寺院者は少ないですね~

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暖かく、軽やかに足が進みます。洞窟の中に墓を設置されているものや右端の写真の木の根が7~8m程伸びて下の地面に根付いている?凄いですね!!

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その内部の木々の花々も僅か咲いております。(写真クリック頂くと拡大します)
左から、木瓜・黄梅?・桜だと思います。
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爺は文書が不得意でして、写真掲載にて胡麻化します^^

東慶寺は今から約720年前、弘安8年(1285)に北条時宗夫人の覚山志道尼が開創いたしました。
 

封建時代、女性の側から離婚できなかった時代に、当寺に駆け込めば離縁できる女人救済の寺として明治に至るまで600年の永きにわたり、縁切りの寺法を引き継いできました。 明治4年(1871)には縁切りの寺法は廃止となり、尼寺の歴史も明治35年(1902)に幕を閉じました。 明治38年(1905)に釈宗演禅師が入寺、中興開山となり、新たに禅寺としての歩みを始めました。 師の高徳ゆえ、門下には居士、哲学者、政財界人多く、鈴木大拙もその一人でありました。 のちに裏山に「松ヶ岡文庫」を設立、世界的禅文化の発展の拠点ともなりました。

 
現在では、かつての尼寺の風情を残す境地に、四季折々の花々が参拝客をお迎えしています。 皆様がこのお寺に来て、心の安らぎを感じられるよう願っております。
・・・・ご住職のお言葉を転記しました(無断で^^)

とさ、で男性の駆け込み寺は無いのかな??(苦笑)
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北鎌倉の寺院には著名人等多くの墓があるそうですが、爺には良く判りません。今後はしっかり勉強して、友人を案内して上げる様になりましょう。
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上の写真「さざれ石」とは、国歌の歌詞にあるものです。
 
では、さざれ石とはどんな石?
 「さざれ石」というと、君が代の歌詞に登場する石として有名です。
ですが、言葉走っていても実際に「さざれ石ってどんな石のこと?」と聞かれたときに、即答出来る人はそれほど多くはないのではないかと思います。
君が代に登場してくる「さざれ石」とは岐阜県春日村にある天然記念物の石であり、なんと実在しています。
なぜ「さざれ石」というかというと、これは平安朝の時代にかかれたお伽草子の中の登場人物のお姫様の名前に「さざれのきみ」というものがあり、そこがもとになっていると言われます。
さざれ石を漢字で書くと「細石」となるそうで、もともとは小さな石のことをさしています。
君が代の歌詞を続けてみていくと、「さざれ石の巌となりて」という文章になっていますが、これは小さな大きさのさざれ石が長年をかけて巌という大きな石になるまでの大きな年月を示すものとして引き合いにされているのです。またまた転載です!!
 
北鎌倉東慶寺のさざれ石
 
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舎利殿は円覚寺塔頭正続院の昭堂。 鎌倉で唯一の国宝建造物。
釈迦の歯(仏舎利)を納めていることから「舎利殿」と呼ばれる。

当初の舎利殿は1563年(永禄6年)の火災で焼失してしまうが、1573年(天正元年)、北条氏康によって西御門にあった尼寺太平寺の仏殿が移築された。

室町時代中期(15世紀)頃の建築物と推定され、日本最古の唐様(禅宗様)建築物。サワラ木葺の屋根は日本建築にはない急勾配なものであるが、これが禅宗様の特色であり、屋根の四方が反り上がりは、尼寺の仏殿らしい女性的なものに造られている。


爺の故郷、福岡県嘉穂郡二瀬町(爺の幼い頃の地名:現在は飯塚市)に在住する寺院:安楽寺(あんらくじ)、我が家は檀家です。そこには知られていないのですが釈迦の歯(仏舎利)が有るんですよ~~私自身信じがたき事象ですが^^ (見せて頂きましたよ)
 
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舎利とはお釈迦様の歯の事です
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常楽寺はもと「粟船御堂」(あわふねみどう)と呼ばれ、北条泰時夫人の母の追善供養のために建てたものであった。創建当時は密教系寺院、また、浄土系寺院でもあったとされているが、次第に禅宗色が強まり、後に臨済宗の寺となった。
建長年間、時の執権・北条時頼によって宋の禅僧、蘭渓道隆が鎌倉に招かれた。蘭渓ははじめ常楽寺の住持となり中国風の禅宗を広め、寺には多くの僧が蘭渓の教えを乞うために訪れた。
その後、建長寺が創建され(落慶供養は建長5年(1253年))、同寺が鎌倉における禅宗の中心寺院になったが、それ以降も臨済宗建長寺派においては「常楽は建長の根本なり」と重視されつづけたそうです。
 
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そこで撮った写真ですが、左は何なのかな~~?

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北鎌倉散策は終わり、時間もあるので懇談会場の「大船駅前」まで歩くことに、歩く事30分強にて、大船駅前の居酒屋に到着です。

そこで、合流する方2名。会場では時間前に気づいたら1名少なく時間迄待ったがお越しにならず懇談開始です。参加メンバー8名(初参加は私と+女性1名)

参加された女性は、メンバー4人で上海方面ツアー時、1人で参加されていた方だそうです。幹事が誘惑したのかは不明ですが?本日の講義頂く教授と連絡されていた模様。また、この会のメンバーは初の女性だそうです。ただ、帰り際にお聞きしたツアー費用が基本額+25,000だったとか?当然一人部屋ですから、高いのでしょうが?私は高額払って参加しないな~、行くなら1人専用のツアー参加が良いのでは。

自己紹介は各自2分、と言われても2ページくらいに纏めて来いとの話だったもので、終るわけない・・・・・・ははは、中断されたよ。後半に継続了解頂き安心しましたよ。
メンバー私が一番の若造でした。最高は82歳のご高齢ですが、皆さん元気ですね~

本日の講義は教授よりリスク(Risk)について、第二弾だそうです。
現在東京豊洲の汚染水問題もあり、非常に参考になりましたね~

特に、東京都知事の発言される言葉や都議、市場の方々や環境汚染調査委員他の発言1つ取っても隠された疑問や意義、またはドンが表に出てきた効果は新都知事の策略か?など勉強になりましたよ!!

次回3月度の講義は私の担当となり「中国放浪の旅?」で良いのでしょうか?ま~アクシデントや風習、風土などを書き綴って報告したいと思っております。

結果、17時から始めた懇談会も20時頃お開き、帰り道にて駅の店で2次会です。
ま、多少旧勤務先の関連会社の方も居られ、入社当時上司であった方と一緒に仕事をされていたそうで、また当時の宣伝部長ともご一緒されたらしく、懐かしく思いました。

結果、帰宅したのは22時過ぎでした。

 
以上