直木賞作家井上荒野が書いた『あちらにいる鬼』(2021朝日文庫)は、作者の実父である作家井上光晴(1926-1992)と作家瀬戸内晴美(寂聴 1922-2021)との不倫関係に取材した小説である。
井上荒野は井上光晴の長女だが、晩年の瀬戸内寂聴と親交があり、寂聴に詳しく話を聞き、母の思いも想像して両者の内面を描き出した。 (婦人公論のサイト記事より )
今回もまず映画の最初を観てから、原作を読んでいく。
映画は2022年公開。
監督 廣木隆一 脚本 荒井晴彦
出演 寺島しのぶ 豊川悦司 広末涼子
作家の長内みはる(寺島しのぶ)は、著名な作家白木篤郎(豊川悦司)と知り合い、やがて惹かれていく。
みはるは、20年前に夫と幼い娘を捨て、年下の男と出奔した。
その男とはいったん別れて別の男と恋愛した時期もあるが、今はまた前の男真二(高良健吾)とよりを戻し、自宅に住まわせている。
白木の妻笙子(広末涼子)は、5歳の娘を育て2人目を妊娠中だが、自殺未遂をした夫の愛人を病院に見舞い、夫からの見舞金を手渡す。
愛人からは白木の子を2回堕ろしたと聞かされる。
まもなくみはると篤郎は男女の関係になるが、白木の妻笙子は、それに気づいても少なくとも表面上は冷静にふるまっている。
……と、30分ほど映画を観ていったん中断し、原作を開いた。
1966年春から始まる物語の各章は、長内みはると白木の妻笙子それぞれの一人称で書かれた部分でできている。
展開する出来事はほぼ映画で観た通りだが、みはると笙子の主観的な語りは、圧倒的な迫力で迫る。
この三角関係における二人の女の心の葛藤。
それを描き出すことが、やはりこの作品の核心なのだと思う。
二人の苦痛を考えると、二人の女性に(あるいはそれ以外にも)愛をささやく白木は、なんと罪深い男か。
しかし二人とも、どうしようもなく白木を愛しているのだ。
けっきょくみはると白木は7年に渡って関係を続ける。
如何とも断ち難いその関係に疲れ果てたみはるは、やがて「出家」という道を選ぶ……。
小説は最終的に、白木の死、その後のみはるの老い、笙子の終末を描いていくが、細部まで丁寧に書きこまれたそれぞれの思いが、リアルに迫る。
文庫本340ページと長くはないが、密度の濃い、読み応え抜群の小説だった。
小説を通勤電車で読み進めつつ、映画も少しずつ小説を追い越さないように観て行った。
70年安保の東大安田講堂事件や、あさま山荘事件、三島事件などの報道映像を挟み込む演出で、時代背景を実感させる。
この映画の焦点はみはると白木との愛人関係であり、みはるの出家をクライマックスとして、この映画は構成されている。
出家の日が近づき、白木はなにげなく風呂に入ろうとみはるを誘い、彼女の髪を慈しむように洗う。
そして、小説にはない場面としてベッドの中でみはるは、髪を切る最初の一刀を白木に求める――。
そして、剃髪式。
初めはバリカンで、やがて剃刀で、みはる役の寺島しのぶの髪を実際に落としていく場面は痛々しいほどリアルで、鬼気迫るものがある。
小説では、出家は物語の中盤に過ぎないが、映画ではクライマックスシーンを終え、いくつかの場面をピックアップして、白木の臨終の場面へとつながっていく。
観終えてみると、やはりみはると白木の間の思いの深さが強く印象に残る。
この作品はやはり、映画を最初に見て、それから小説を読むのがおススメだ。
映画では、不倫とはいえ深く結ばれた男女のひとつのあり方を深く見つめることができる。
こういう生き方、関係のあり方もあったのかと。
そのあと小説を読めば、映像の記憶に助けを借りて物語世界に没入しつつ、みはると笙子が語るそれぞれの内面を、じっくりと味わうことができる。
とくに、映画ではやや消化不良になってしまう、白木の妻笙子の心の裡を読んでいく興味は、また格別である。