私の著書『映画を観ているみたいに小説が読める 超簡単!イメージ読書術』の中に、ヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』を全編、カットイメージ作業をしながら通読した、という話を書いた(P215)。
古代インドを舞台に、生身の人間として“道”を求める一人の人物の生涯を描いた作品。
それまでにも何回か読んでいたが、カットイメージで再読すると細部のイメージがありありと浮かび、まさに“映画を観ている”ように、主人公の自己探究の道に没入した。
読み終えて、「本当の意味で自分の愛読書になったと実感した」(P216)。
それからしばらく経つが、ふと、同じヘッセの『デーミアン』をカットイメージで再読してみたくなった。
不思議な転校生デーミアンとの出会いから始まる、青年エミール・シンクレアの“真の自己”を求める、あてなき魂の放浪の物語。
『シッダールタ』のひとつ前の作品で、テーマは同じ線上にある。
第一次大戦を舞台にエンディングを迎えるこの小説は、大戦後の若者たちに熱狂的に読まれたという。
私は高校2年のとき、図書委員会の「読書会」担当として、校内の公開読書会でこの小説を取り上げた。
口達者な一部の生徒が好き勝手に作品をこき下ろし、まじめに線を引いて読んできた女子生徒が発言できないような読書会。それを変えたいという思いがあった。
私が司会を務めたその読書会の内容は、なぜか憶えていない。
何ひとつ実を結ばなかったという、苦い後味だけが遠い記憶の中にある。
参加者みんなが自分のイメージを否定される不安なく話せて、互いの読みの個性を認め合い、学びあう。そんな読書会はできないか。
半世紀近く前に自ら掲げたその問いに、カットイメージのセミナーでようやく解決案を示せたかな、と今は思っている。
さて、久しぶりに手にした新訳の『デーミアン』(酒寄進一訳 光文社古典新訳文庫)。
鉛筆を持ち、簡易式のカットイメージ作業をしながら読んでいく。
主人公シンクレアが、不良少年に強請られ続ける場面は、カットイメージで読んでいくと、募る不安と苦悩が胸に迫る。
いじめられっ子だった自分自身の幼時の記憶を刺激する。
それを救ってくれるデーミアンとの出会い。
彼の不思議な風貌と、権威を怖れずに語ることばが、とても魅力的に聞こえる。
読者である私にも。
少年デーミアンが語ることばと、いったん彼と別れた後のシンクレアの自己探求の旅は、しばしば観念的な語りの連続である。
しかし、カットイメージで読んでいくと、抽象的なことばの中に、人物の表情の変化とともに、思考の切れ目・塊を見つけることができる。
こうして読むことができたら、高校生でも、作品の内容にもっと深く迫れたのに……と、手前味噌ながら思う。
ストーリーはほとんど忘れている、と思っていたが、読み進むと、脳の奥底から忘れていた記憶が蘇ってくる。
先が見えない感覚で読んでいるが、読み進むと、確かに記憶がある。
そして、デーミアンと再会するラスト。……確かに覚えていた。
忘れていたのに、しっかり憶えている。とても不思議な感覚だった。
そして、難解な作品だが、今の自分の力で読めるところまでは読み切れた手ごたえがある。
それでも、わからないところは多々残されている。
奥深い作品は、カットイメージで読み込めば読み込むほど、さらなる謎を提起してくる。
……きっと、いつかまた再読するときがくる、そんな予感が残った。
ところで、高校時代、私が最初に読んだのは、旺文社文庫の『デーミアン』(常木実訳)であった。
読書会のテキストとしたのは、ポピュラーな新潮文庫版『デミアン』(高橋健二訳)である。
今回読んだ酒寄進一氏の新訳は2017年に出ているから、ずいぶんと新しい。
巻末の「訳者あとがき」を読むと、冒頭に「『デーミアン』を初めて読んだのは高校二年生のときだから、1974年のことだと思う」とある。
なんだ。酒寄氏は私と同い年だ。
私が『デーミアン』の読書会に臨み玉砕した、その同時代に、彼もこの作品に出会っていたのだ。
不思議な縁である。