桜木紫乃の『ホテルローヤル』が映画になったというので、この機会に「カットイメージ」を意識して再読してみた。
桜木紫乃の小説はなぜか好きで、ほとんど読んでいる。
流転していく女の凄絶な人生を描き切った『ラブレス』。
薄幸の美女に惹かれていく男と、その女の犯罪の動機が衝撃的な『それを愛とは呼ばず』。
北の外れの街の利権渦巻く男社会の陰で変貌していく三姉妹を描いた『霧(ウラル)』。
そして、凍れるオホーツク海を背景に、どん底の境遇からささやかな幸せを夢見て叶わない女の運命の哀しさが胸に迫る短編『氷平線』。……
北海道という風土で、自身の運命と向き合って生き抜いていく女たちが、私にはとても魅力的で、いとおしく思える。桜木紫乃の小説に出てくる男たちはいつも哀れで、ちっぽけな存在である。
そうした中で、『ホテルローヤル』は、私にとって記憶に残る作品ではなかった。
同じように短編連作という形式をとる『ワンモア』や『蛇行する月』、『ブルース』などは、それぞれが短編として読みごたえがありながら、ひとつの物語としてつながっていく感動が味わえる。
しかし、『ホテルローヤル』を初めて読んだときには、ひとつひとつの短編に大きな盛り上りはなく、それらがつながってくるおもしろさも感じられなかった。
一軒のラブホテルをめぐる7つの連作短編と聞くと、そこで起こる男女の愛憎劇かと想像する人が多いのではないか。 しかし、この小説は実はそうではない。
既に廃墟となった「ホテルローヤル」から始まり、創業者が「ホテルローヤル」を始める前の物語で終わる。実際にホテルローヤルを利用した客の話は1つしかない。
だが、今回再読して、ひとつひとつの物語を丁寧にイメージして味わってみた。
すると、これらはそれぞれ離れた時間と空間に浮かんでいるが、その中心には確かに、湿原に面したラブホテルがあり、30年の歳月がある。そう感じられた。
これらの短編小説を空間と時間の座標軸として、その内側には、「ホテルローヤル」で起きた、ここには描かれていない無数の物語が浮かんでくる。そんな気がしてきた。
映画はまだ観ていないが、予告編を観ると、忠実な映画化ではなくて、ラブホテルを舞台にした新たな物語として大幅に脚色されているようである。
それも、監督や脚本家がこの小説を読んで、実際には描かれていない物語への想像を掻き立てられた結果ではないか。