御所の北東にあたります
この一帯を猿が辻といいます

猿が辻と聞けば
私は攘夷派の先鋒
姉小路公知(あねこうじきんとも)に
思いを馳せます

公知は当時25歳(数え)
公家のぼんぼんのイメージに反して
色黒の硬骨漢で
武智半平太などが
いつも相談に預かっていたといいます

ここから先は


の78頁以降「8月18日の政変」に詳しいのですが

1868年5月20日の夜
夜の23時過ぎに御所を退朝し
御所の西側にある
宜秋門(公家用の門、下の写真の門です)
から北上し、近衛邸前の朔平門前まできて
さらにすすんで


この朔平門を過ぎ
有栖川宮邸の北門にさしかかったところを
暴漢に襲われます


有栖川宮邸はまさに御所の鬼門の真前です

公知卿は提灯持ちのお供1人と
雑掌 中条右京
そして太刀持ち1人
靴持ち1人を従えていましたが
中条右京以外は全員逃げてしまいました

卿は果敢に応戦しますが相手が逃げ
また卿も深手を負ったので
御所の北東にある
地図では「公家衆」とまとめられてる箇所の
赤丸の付近
一番北にある姉小路家にまろびこみます
おそらく
現在「猿が辻」の木札を建てている辺りが
旧姉小路邸あたりではないかと思います
卿は気丈な性格のため
屋敷に戻るまでは正気を保っていたものの
姉小路邸に戻るとそのまま意識を失い
あえなく最後を遂げたと伝わります
このあたりで。。感慨深い。。。



さて猿が辻ですが
北東(丑寅)は鬼門
陰陽道では
鬼が出入りをする場所とされてきました

御所の北東の線をずーーーーーっと伸ばすと
その先にあるのは比叡山
比叡山延暦寺はもともと御所の鬼門除けとして
造立されたといいます
またいまでは方位が違いますが
平安時代の内裏の位置でいえば
御所の北東にまず安倍晴明の屋敷
その先に延暦寺が仕掛けられていました

京都ではいまもなお
御所にならって
屋敷の土地の北東を欠けさせたお宅をみかけます
鬼の気を避ける(削ぐ、そらす)ためです
本来ならば90度直角のところを
矩形にくぼませるのです
このような仕掛けを「カケ」といいます
一軒家によく見かけます

足元にあるのは
皇宮警察の防犯カメラ
この溝を跨いで土塀を触ると
ブザーが鳴って皇宮さんがやってきて
したたか叱られますので
ご注意ください
上を見ますと
烏帽子姿で幣を肩に掛け持った神使の猿がいます
日吉神社(比叡山延暦寺の麓坂本にある)
のご神使です
幾重にも仕掛けられた魔除の法です
幣を持ってますね
猿が辻から御所の東側を土塀に沿って南下します
ここは橋本家跡地
よく上皇様のご学友として
テレビの取材に応じていた
ジャーナリストの橋本明さんは
この橋本家のお血筋なのでしょうか
和宮の生母は橋本家の出らしいのです
知らなかったなあ
ここで育てられたそうです

さらにとなりは学習院跡地です
奥に見えるベージュの壁は京都迎賓館
そのまま下ります
なぜか御所はイケイケな明るく軽いエネルギーの
西側に比べて
東側のエネルギーは濃くて暗いです
建春門
東宮だけが利用する門です
建春門前から南東には
仙洞御所が見えます
建春門を過ぎまして
矩形に壁に沿い西に曲がります
すぐ右手に見える、観光の方が立っているところ
これが道喜門(どうきもん)です
川端道喜が出入りするために
特別に用意された門だといいます
川端道喜はいまもちまきやさんとして
営業されています

詳しくはこの↑リンクをどうぞ

川端道喜は代々の屋号ですが
当主は室町末期の動乱期から
明治2年に遷都するまで
ずーーーーーっと
毎朝天皇の朝食を届けていたといいます

その川端道喜のために
彼だけの門が用意されたなんてすごすぎる
しかもこの門は
天皇しか使えない建礼門のすぐ東にあるのです
かどを曲がれば東宮だけが利用する
建春門があります

そんな門に囲まれた門の使用を許されるとは
ふつうに考えたら訳がわからなくなります
異例の厚遇真顔

北東のマルが猿が辻の変由来の場所
東の縦長のマルが
橋本家跡、学習院跡地、建春門
そして南側のちいさなマルが道喜門です




古地図
古地図が欲しいですね御苑の
江戸末期のがいいな
それ見て突きあわせつつ歩いてみたいです