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けど今朝は涼しい。

お久しぶりです。

皆様お元気ですか?

 

(冒頭の暑い連呼いらないよね?というご指摘ありがとうございます。私もそう思います。)

 

私は去年から謎の体調不良に陥り(頭がボーッとしてクラクラするんですよ…)一度服薬でよくなって元気になり、ひゃっほう!と思っていたのですが、6月頭くらいからまた症状が戻ってきて、今も毎日「今日もまたこれか」と思いながら生きております。

血液検査も異常なし、色んな科で色んな検査しても異常なしで、原因というものがわかってないのでやだなあと思ってますのですね。仕事はなんとかやっております。(その仕事が大変すぎてへろへろですけどね…)

 

 

皆様の日々の生活におかれましても、種々様々な人生のイベントや健康問題金銭問題嫁姑問題?などなどあると思いますが、なるべく心身の負担が軽く、そして一日でも多く良い日が送れることを、勝手に心から願っております。

 

さて。

 

今回はタイトルの通り「政治の話」というか選挙の話?です。

羽生君のお話ではありませんので、興味のある方が読んでくださったら嬉しいです。

 

 

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まず、ブログを書こうと思ったのは、なんか今の気持ちを文章にして残して置かないと後悔するのでは?という気持ちが数日前からどんどん膨らんできて指先が熱を帯びてきたというか。←パソコンのキーボードを乱れ打ちしたくなってきているという表現

 

というのも、今回の参議院選挙で、私は今まで覚えたことのない不安に駆られているからです。

そしてそれをどのように伝えるのが良いのかと考えていたのですが、結論を先に言おうと思いました。

 

「受け入れられないことは明言すべきだけれども、同時に批判だけではなくてやっぱり希望を見出したい。」

っていうことかなと思います。

 

 

<悲しさとそれだけじゃない気持ち>

 

今回の選挙は争点の一つが「外国人問題」となっています。

そしてそれにまつわる各党の主張及びそれらを受けての社会の反応が私は恐ろしい。

 

このブログを読んでくださっている方の多くがご存知の様に、私の配偶者は外国籍(アメリカ)です。

息子は日本とアメリカ国籍所有のミックスルーツです。(今後一つの国籍を選択することになりますが)

結婚以来、家族でずっと日本で暮らしてきました。

そして、自分の背後によどんだ暗いモヤみたいなものが立ち込めてきているみたいな、こんな風な感覚というか気持ちになったのは初めてのことです。

本当に今までは恵まれていたのだなあと思いました。

今までだってずっと私は当事者だったことは間違いないんだけれど、今回初めて肌で「当事者感覚」を覚えた、ということですかね。

 

どういう書き方をすると一番伝わりやすいのだろうか、と何日か考えていましたが、正解はやっぱりわからないので、私なりに書いてみるしかないなと思って書いてます。

 

私が辟易としているのは「違法外国人」「不良外国人」「ルールを守らない外国人」というラベルの元で拡散されている情報のデマの多さとそれを信じている人の多さです。*因みに外国人優遇とかないので。ほんとに。うちは自営ですが税金(及び社会保険料)高すぎて払いきれないから私が副業してますので。

在日(及び訪日)外国人について議論すべき課題が存在することはその通りで、整備すべき制度などは多岐に渡ると思います。

それらの提案を「排外主義」と言って一蹴していたら、実際に起きているトラブルを放置することになるわけで、それは違うと私は思います。

ただ、この問題を差別的に取り上げて圧倒的少数派である外国人をスケープゴート(悪者にする)にして票にしようとする姿勢が受け入れられないわけです。

問題があるとすれば、彼らを受け入れて今ここまできた政治システムと社会にあるわけなので。

為政側ではなく、少数の当事者たちに責任転嫁しようとするのは(さらに言えば、そういう言動で自分たちの勢力を拡大させようとするのは)間違っています。

この問題が政争の道具とされていることに、そしてあっという間にそのような空気が醸成されていったことに驚きを隠せません。

 

日本で暮らす(あるいは訪れる)外国人に関する情報が広がる中で、フェイク情報でも「自分の気持ちを代弁してくれている」と感じたり、「そうであってほしい」という思いから、それらを信じる人が多くいます。

そして私は今、誤った情報を「それは事実ではない」と正確な情報で訂正し、批判するだけでは、もはや状況を変えるには不十分なのだろうと感じて絶望的な気持ちにもなります。ファクト(事実)かどうかは二の次なのだろうか、と思って立ちすくみます。

 

 

<批判する側の姿勢に思うこと>

そうした情報を信じる人々に対して、(特に)SNS上では「デマに流される無知な人たち」とか「バカが◯◯を支持している」といった語り口が散見されます。

でも、そのような言説は相手の考えを変えるどころか、むしろ立場をいっそう強固にしてしまうだけだろうと思うと気持ちがさらに落ち込むわけです。

私自身も、もし自分の誤りを指摘される場面で「馬鹿だからそんなものを信じるんだ」と言われたら、相手を嫌いになりこそすれ、かえって自分の信じたものにすがりつく気がします。てゆーかそうなるだろう。

結果として、「自分たちを見下している偉そうな連中だ」という反感が生まれるわけですよね。
アメリカ大統領選の過程で、こうした分断と反発がどれほど深刻な帰結を招くかを目の当たりにしたばかりだし、「これがあれなのか(←抽象的に言うな)」と肌で感じて背筋が凍る思いがするのです。

 

 

自由、平等、多様性、民主主義、人権といった所謂「リベラル的」な価値観を信じる人々は、それらを「進んだ考え方」と捉えるがゆえに、そうでない立場の人々を「遅れている」「アップデートされていない」と批判しがち。

でもその態度は懐疑的な人々には傲慢に映りますよね。

 

特定の集団が優遇され、自分たちは取り残されて苦しい、ずるい、許せないと感じている人々がいるのなら、その思いの背景と苦しみの声に耳を傾けなければ、前に進むのは難しい。

「正しいことを言う」「正しい行動をとる」ことは大切だけど、「正しくない」とされる人々を上から目線で批判しても、その声は同じ価値観を共有する人々の間でこだまするだけになるんじゃないだろうか。っていうことを私は本当に危機感を持って感じます。

 

 

ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロさんが前そんなこと言っててすごく印象に残りました。

 

 

↓この記事すごく色々示唆に富んでるのでおすすめです。結構前の記事ですけど…

 

ブレグジットにしても、トランプ主義の台頭にしても、中には半分ジョークを交えながら、「この世には本当にバカがいるもんだ」と怒る人もいます。しかし、私たちはその先にあるものを考えないといけません。そこで起こっている重要なことに気がつかないといけないのです。

俗に言うリベラルアーツ系、あるいはインテリ系の人々は、実はとても狭い世界の中で暮らしています。東京からパリ、ロサンゼルスなどを飛び回ってあたかも国際的に暮らしていると思いがちですが、実はどこへ行っても自分と似たような人たちとしか会っていないのです。

私は最近妻とよく、地域を超える「横の旅行」ではなく、同じ通りに住んでいる人がどういう人かをもっと深く知る「縦の旅行」が私たちには必要なのではないか、と話しています。自分の近くに住んでいる人でさえ、私とはまったく違う世界に住んでいることがあり、そういう人たちのことこそ知るべきなのです。

 

 

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よりネガティブな、センセーショナルな情報が注目を集める中、私たちはこうしたコントロールできない世界とどう折り合いをつけていくのかに苦慮しています。

それでも私たちは、真実がきちんと伝わるすべをなんとか考えなければいけません。それがセンセーショナルだから、とか、目立つから、とか、怒りに満ちているからという理由ではなく、尊敬の念から注目を集めるものが必要です。私たちは何とかしてもっと思慮深いものを作っていかなければならないと思います。

 

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過激だから、とか目立つからとかではなく、尊敬の念から注目を集めるもの…

今の日本で(だけじゃないけどほんとにまじで…)そういうものを構築して政治を、そして未来を語るのは本当に難しいと感じるけれど、私はそういう言葉や価値観が大切にされる社会を諦めたくないし、そう思って生きていきたいなと思います。

私はインテリじゃないので、難しいことはわからないんだけど、だからこそ、とも思うというか。←伝わりづらい

 

 

さっきも書いたけど、特定の集団が優遇されている、そのために自分たちが苦境に陥っている、許せない、ずるい、と思う人達が多くいるのならば、そうなる背景とその人達の苦しみの声に耳を傾けない限り、カズオ・イシグロさんの言う様な「思慮深いもの」を作ることは決してできないのだろうなと思います。


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因みに、外国人問題(その言い方もどうなのだろうかと私は思うけれど)について強固な主張をする人たちの中に、往々にして「何で飛躍するんだ、言葉をすり替えるな、自分たちは不法移民や違法外国人、ルールを守ってない外国人について言っている、真面目に働いて納税してる外国人のことは言ってない。そういう人は日本にいていい」という主張をされる方がいます。

 

まあ、言っていることはわかるし実際そう思っているんだろうけれど…

でもそういう言葉の影響力は当事者には違って響きます。

私は外国人ではないにも関わらず恐怖を覚えているし、

息子が学校で嫌な思いをしたりしないだろうか、と心配になったりしています。

現在15歳の彼は、小5の時に「ハーフって何?」と私に聞いてきたくらい、(「え?知らなかったんだ。君のことだよ。」と思いましたけど笑。)

今までそういう風に自分の人種やルーツが周りの子達とは少し違うということを感じたり指摘されたりすることはないまま生きてこれたみたいです。

でも今みたいな空気感が社会に持続するとしたら、そのうち誰かに何か揶揄されたりすることになったりしないだろうか、とか思ってしまう。自分に何も咎のない生まれに関して何か言われたりしたら…と想像すると胸がきゅっとなります。

 

その恐怖について旦那さんに話したところ、

「生きていればそういうことは必ず起こるし、そのときには僕たちが強く支えてあげればいい。それに今まで彼の周りは温かい先生や友達ばかりで嫌な思いをしたこともないんだし、起こってもないことを心配するより、それに感謝して過ごしたほうがいい。」と言われました。(その通りすぎて少々ムカつきました←は?)

なんというかずっと日本人ばかりの日本社会で生きてきた私と、多民族国家出身の彼とはやっぱりずいぶん考えが違うもんだなあとしみじみと思いました。

 

そして、私のパートナーよりもっと前から日本に移住している仲良しのカナダ人の男性から先日連絡が来ました。

日本を愛し、日本語が大好きで、日本語能力試験1級を取得し、日本人と禅寺で結婚式を挙げ、日本の古典文学由来の名前を娘につけたー

いわば、「こういう外国人なら歓迎される」と言われる模範のような存在です。

その彼が、LINEで

「最近の空気はとても不穏で、苦しい」と言ってました。

 

「自分たちは“ちゃんとした外国人”のことを言ってるんじゃない」と主張する人がいても、その言葉がどう届くか、どう感じられるかは、またまったく別の話なのだと思います。

「ちゃんとした」の「ちゃんと」は主観で恣意的で、その線がどこで引かれるのかということを対象とされる側は常に不安に感じる、という当然のことだと思います。

 

今スケープゴートになっているのは外国人、もしくは一部高齢者や一部女性や、障害のある方、理由があって就労できない方など様々いると思いますが、今はそうでもなくても、いつか自分が当事者となったとき、果たしてどう感じるかという想像力を働かせるのは、やはりとても大事なことなのではないかなと思います。

 

 

この問題については、「彼らが社会に害を及ぼしている」といった責任を押しつけるような論調ではなくて、トラブルや課題の背景や事情を知り、必要な支援や制度が少しずつ整えられている、あるいはそのための取り組みが進められている、そうした姿勢や情報を示すことで、多くの人々に安心感を与える方向に向かっていくべきだと思います。

問題を煽るよりも、社会として冷静に対応し、解決のための仕組みが動いているという実感を持てることのほうが、長い目で見てずっとずっと国益になるのではないでしょうか?

と私は思います。

 

ということを、選挙前に今回は書いてみたかったので、書いてみました。

 

 

色んな考えの人がいて色んな人がいて、それが許され、尊重される社会が続きますように。

そう願って、やみません。

 

読んでくださり、ありがとう〜〜。

皆様どうぞ良い週末を!

お久しぶりの絵子でした。