ずっとフモさんがコラムを書いてくれるのを待っていたのですが、←それを読んでからしか書けないと思って…←フモコラム依存
でも書かないみたいなので、(そしてその気持ちも、私の勝手な推測ですが、わかる気がしてとても辛い)自分で書いてみようと思います。
今日は勤労感謝の日。
アメリカは、サンクスギビング(感謝祭)です。
日本在住でアメリカのホリデーをほとんど祝わないうちの旦那さんですが、サンクスギビングだけは毎年必ずお祝いします。
家族三人で自分は何に感謝するかをシェアしあいます。
このサンクスギビングのあとからうちではクリスマスの飾り付けをします。
いよいよ年末だなあと毎年感じます。
私は昨夜、ぼんやり自分が「何に感謝するか」について考えていました。
そして絶望の毎日を送っていた過去を回想しました。
何とかその時期を抜け出して、今日まで生きてこれたことを本当にありがたいと。
8年ほど前、自分がこの人生を生きるということを辞めたいと思っていた時期があって、毎日溶けていなくなることを想像していました。
そしてそんな私を救い出してくれたのが、羽生結弦という人だったのでした。
スマホの小さい画面で、毎日誰かのあげてくれた過去の演技動画を見ていました。
彼の放出するエネルギーが、無感動で無色だった私の世界を変えていきました。
知らない間にこぼれ落ちてくる涙や、緊張感や興奮や、熱を帯びて高まる鼓動を感じながら、欠けてしまっていた何かが埋まり、以前のように循環しだしたような気がしました。
その時期は、私の鼓動が早くなるのは「もう人生終わりだ」と思って緊張感で倒れそうになるときだけでした。
そんな絶望の気持ち以外に、もう心臓が早く動くことなどないと思っていました。
でも羽生君の演技を見た時に、私の体と心はときめきと興奮と感動で熱く激しく脈打っていました。
心臓だけじゃなくて、頭から足の爪先まで、果ては内部の細胞に至るまでが、まるでオーケストラが一斉に華やかな交響曲を奏でているようでした。
その感覚はとてもセンセーショナルでした。
私はその身体感覚によって、再び生の実感を取り戻したと思っています。
羽生君は私の命を救ってくれました。誇張ではなくて、本当にそうなのです。
©アイス
羽生君が結婚をして、そして離婚をしてー
羽生君の演技と人柄に恋していた私は驚き、戸惑い、うろたえました。
私も週刊誌記事はいくつかは読みましたが(ごめんなさい)
記事内容が印象に残るようなことは一切ありませんでした。
それよりずっと鮮烈だったのは、相手とされて報道された方に対する色んな人達のコメントでした。
彼女の名誉を傷つける屈辱的なものが、誰にでも見える場所で、普通にすぐそこに、しかも多数、存在していました。
人間だから好き嫌いがあるのは当然で、内心でどんなことを考えようがそれは自由で誰にも侵されるものではありません。
ただ、それを公の場で「そうであって欲しくない」という気持がありありと感じ取れる状態で、そしてそれがさも、「それが彼の為である」というスタンスで語られる場合は話が違うのではないでしょうか。
週刊誌報道だから信用に値しない、
その報道を辞めて欲しい、というところまでは私は同意しますしわかるのです。
だけど、
その主張が
「彼にこの人はふさわしくない、そうであって欲しくない」
「この人ということにされたら彼が更に傷つくから、守るために、そうでないことを証明しなければ」
という動機に基づいていたように見受けられ、
それが多数になり、大きな塊となってSNS上に滞留していたことが私には問題に感じられました。
ずっとそう思っていたけれど、言ったら攻撃されると思うと言えなかったし、そういう人達が悪意なく行動していることもわかっています。
そして私だって自分が正しいファンだとは口が裂けても言えません。
間違ったことをしたことがないなどとは全く言えません。
だから出過ぎた真似をするなと言われるかもしれないけど、
でも、どうしても、今、私達は考えないといけないのではないか、ということを言わずにいられません。
「彼のために何かを証明する/抗議する/批判する/ーその為には他の誰かが貶められ踏みにじられても良い」というような考えが許容されるような集団で良いのか、
そして羽生君がそういうことをファンに求めているか?ということを。
他の誰か、というのは、今回は相手とされた方やそのご家族や関係者かもしれませんが、状況が変われば対象者は別です。
誰であっても、です。
某有名野球選手であっても、関係者であっても、他のスケーターであっても、です。
ずっと(低俗)メディアのゴシップに苦しめられ、ティーンの頃から誹謗中傷にさらされ続けてきた彼だから、守りたいと思う気持ちは当然だとも思うし、よくわかるのです。
そして攻撃的な姿勢になってしまう/ならざるを得ない、ということもわかります。
それに理不尽なことについてしっかりと指摘、批判することは絶対に必要なことでもあります。
でもそれは、あくまでもその批判対象には、「自分」の立場として言うべきなのであって、彼の代弁をする、という視点になってしまっていないか、自問しないといけないのではないでしょうか。
<「私は」「いち消費者として」「いち個人として」この様な報道は許されざるべき>、という批判なら私は大いにすべきだと思うのです。
それが、「彼を守るために」「彼はこうして欲しくないと思っているから」という姿勢で行われた時に、その主張は一気にバランスと説得力を失うのではないでしょうか。
ファンが「彼のために」と過激な主張をすることで、ゴシップはより拡散されて、二人のプライバシーが更に侵害され続けた可能性はないでしょうか。
自分の気持ちをただ表現しているのではなく、それを「ファン」という肩書で外の世界に主張する場合は意味合いが全然違います。
出版社やテレビ局、または著名人などを、世界中の人が見ている場所で批判する時に、感情的な偏りからくる主張が客観性を欠き、論理的でない場合がある、ということをよく考えていたでしょうか。
そして自分は発言しなくとも、それを支持し、威力を増す為の一翼を担っていなかったでしょうか。
そうであった場合、「守りたい」と願う彼という人物にとって、良かれと思った行動が逆効果になってしまう可能性があるということを考えられていたでしょうか。
羽生君を守るのは彼と彼の周りの人達であり、そしてその体制を調整するのも関係者が考えることではないでしょうか。
私達が出来るのはファンの立場からファンとして意見を述べることであり、羽生君の代弁をすることではない、そこを分けて考えることがとても重要ではないでしょうか。
私はここで匿名で文章を書いています。
辞めたくなったら辞めて去っていくことができます。
すぐに私は忘れ去られるでしょう。
なんと気楽な立場でしょうか。
言いたい放題言う人も、追い詰められて嫌になったらツイッター(とまだ呼んでる)またはブログのアカウントを消せば良い。
羽生君はどこまでいっても自分から逃れることは出来ない。
そういう人に私ができることといったら、「自由」でいて欲しいと、彼との間の適切な「距離」を常に自問して、その線を踏み越えないようにすること、それに尽きるのではないかと思うのです。
28歳の羽生君が抱えるには巨大すぎて、そして不可能なものが押し寄せたと思います。
ただひたすらにフィギュアスケートに打ち込んで、同世代が経験する多くを逃してきたこともあるかもしれません。
ずっと「スケートのための選択」を続けてきたから。
そして、今回二人で話し合って決めたこの選択も、そこにつながるのではないでしょうか。
だとしたら、私達にできることはそれを尊重して、彼が見せようとするものを受け止めさせてもらうことなのではないでしょうか。
感謝祭の日に私は、自分が抱える悔恨の念に苛まれながら世界の片隅でつぶやきたいです。
<羽生君、私が本当に辛かった時に、命を救ってくれてありがとう。>
本当に本当に、ありがとう。
えこでした。読んでくださり、ありがとうございました。