落合監督が残したもの | エコリングのブログぅ

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2004年、中日対広島の開幕戦、試合前のアナウンスにスタンドがどよめいた。その衝撃は瞬(またた)く間に全国へと広がっていった。新監督・落合博満が3年間も登板のない川崎憲次郎を開幕投手に抜てきした。「オレ流」。現役時代からの型破りなイメージを指揮官としても決定づけた。当の落合はそんな周囲の反応をどこか、楽しむかのように、また、真意を胸に秘めるかのようにベンチで含み笑いを浮かべていた。

 開幕・川崎の衝撃から遡(さかのぼ)ること数カ月、まだ、吐く息が白い季節に落合は中日ドラゴンズの白井文吾オーナーと契約を交わした。5年間、優勝から遠ざかっていた球団を根本的に建て直すため、グループ総帥は指導者経験のない一匹狼に白羽の矢を立てたのだ。

「このチームを変えたい。勝てるチームにしてほしい」
「わかりました」

「改革」と「勝利」。契約書にも記されたこのふたつの使命を請け負った。すでに落合の頭には幾つかの「策」が渦巻いていた。それらを、水面下で静かに実行に移していった。

 1月2日、正月を和歌山県内にある落合記念館の別荘で迎えた落合は、リビングから1本の電話をかけた。

「開幕はお前で行こうと思っている。そのつもりで準備してくれ。もし、だめなら、1週間前までに言ってこい」

 電話の先にいたのは川崎だった。2000年オフにヤクルトから4年総額10億円でFA移籍した右腕は右肩痛で、3年間、一軍のマウンドに上がれていなかった。限界説もささやかれていた。大金をはたいた末の補強失敗と批判もあった。落合はそんな、チームの最も暗く、沈んだ部分に目をつけたのだ。

 一方、2月の沖縄キャンプが近づくにつれ、名古屋でオフを過ごす中日の選手たちからはこんな声が聞こえてきた。

「本当にやるの?」
「無茶でしょう」
「オレたち、壊れちゃうよ」

 どうやら、新監督はキャンプ初日から紅白戦をやるつもりらしい……。第1クールは8勤、その後は6勤が続くらしい……。そんな情報が漏れ伝わっていた。

 そして、迎えた2月1日、他の11球団がジョギングからキャンプをスタートする中、落合竜の北谷(ちゃたん)球場には季節外れの「プレイボール」が響いた。前年、右肩痛でほとんど投げられなかったエース川上憲伸が148キロの剛速球を投げ、立浪和義、福留孝介ら主力打者がフルスイングした。「オレの予想を超えていたよ」。その姿を見た落合は満足そうに言った。そして、予告通り、翌日から8勤、6勤、6勤、6勤のハードキャンプを敢行した。あまりの過酷さに故障者は20人に上った。それでも平然と選手たちの動きを見つめていた。

 落合は今、当時の真意をこう語る。

「最初にこのチームを見て『ああ、練習してないな』って思った。だから、8勤、6勤、6勤でいった。みんな大変だったと思う。でも、シーズンに入ったら週に6日間試合やるのに、なんでキャンプだけ4日やって休みなんだ。そう考えれば、当たり前なんだ」

 当時、キャンプと言えば3勤か、4勤1休だった。第1クールは体づくりから入り、徐々に実戦練習をしていくのが普通だった。落合はこの常識を真っ向から否定した。だが、ロッテ、中日、巨人、日本ハムと現役時代の落合博満に、およそ猛練習のイメージはない。なかなかバットを握らず、バットを持ったかと思えばエアーテントにこもっての秘密練習というオレ流調整ばかりが思い浮かぶ。だが、じつは、落合には現役時代から抱いていたキャンプに対する疑問があった。

「オレが現役の頃は、バッティングをしないと練習していないと見なされた。でも、オレは2時間も3時間もノックを受けていた。下半身ができないうちにバットは振らないという持論があったから。でも、あの当時の人たちは、そこは見てくれなかった。『打撃=練習』だった。打撃しないと、ああ、あいつは練習してないなって思われたんだ」

 試合をやるためには、投げなければならない。打たなければならない。そのためにはどんな準備をしなければならないか。2・1紅白戦も、6勤1休も、プロ野球選手として、当たり前の「土台づくり」を意識させるための手段だった。2月1日に試合をやることより、1月の自主トレから下半身をつくらせることが狙いだった。6勤という猛練習をすることより、シーズンの基本となる6連戦に体を慣れさせることが狙いだった。球界では「非常識」と言われたオレ流キャンプは、じつは落合の中では「常識」だった。それを選手に理解させるためには、言葉で説明するより実践あるのみ。数々のサプライズは、選手、スタッフの意識を改革するためだった。そして、その仕上げが「開幕投手・川崎」だった。

 2004年4月2日、川崎は2回途中5失点でKOされた。だが、チームはその後、広島のエース・黒田博樹から逆転勝ち。開幕3連勝を飾ると、リーグ優勝へと突っ走った。落合は大方の予想を覆して、就任1年目で優勝を果たした。「非常識」と批判された落合流の手法は一転して、称賛の的となった。

 8年間、最も印象に残っている勝利を問うと、落合はこう言う。

「最初がなければ、次もない。そういう意味で言えば2004年の最初の試合だろうな。まわりは奇襲とか言うけど、オレにはまったくそんなつもりはなかった。あのチームは補強なし、全員横一線で始まった。川崎が投げることで『オレたちもやれる』って思わせる必要があった。それに1、2戦で連敗しても3つめは(川上)憲伸で勝って1勝2敗にはできるかなって。最悪の3連敗を避けることも考えた。そしたら5点差をひっくり返して勝つんだもんな(笑)。もし、あの年に負けたら、選手はどうせ練習しても勝てないと思っただろう。やったことに成果が出たから、オレの練習が普通になっていったんだ」

 8年間、すべてAクラス、リーグ優勝5度。自らの使命である常勝軍団をつくり上げた。ただ、それらは2004年に断行した意識改革と、それに伴った結果がなければ成し得なかったという。確かに、もし、負けていれば、2・1紅白戦も、6勤1休も受け入れられなかっただろう。落合の「常識」は球界の「非常識」として葬り去られただろう。だからこそ、落合は監督として最初の勝利を忘れない。落合改革の象徴となった、あの1勝を忘れないのだ。